Twittery1102 – 中東メモ

posted in: 月誌 | 1 | 2011/2/27

中東(イスラム圏)では金曜日がお休みで、
この日の礼拝後にデモが呼びかけられることが多い。
ところが日本のテレビは、土・日にぐっとニュース番組が減る。
従って、大きく状況が動いているかもしれないのに、
情報がほとんどないという飢餓感を、最近の週末は味わっている。

そんな折、ダイレクトに情報をあさる語学力のない身には、
まことにありがたいブログサイトを見つけた。

「中東の窓」 http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/

多くの方の目に止まることをご本人も望んでおられると思うので、
勝手に紹介させていただきます。

上記サイトが引用しているアルジャジーラ・ネットなどからのニュースでは、
チュニジアでは更なる(暫定政権に対する)デモや、
ヨルダンのアンマンでも数万人規模のデモが行われたという。
バーレーンやイエメンでもしかり。

リビアに関しては、やはり情報が錯綜している。
各新聞社のネット速報を拾い読みしても、確かなことはわからない。

アメリカやEUが経済措置を宣言したが、
これらにいったいどれほどの効力があるのか。
もしあちこちで伝えられる、
「カダフィの命運は時間の問題」という読みが正しければなおのこと、
追い詰められた者の徹底抗戦は激しくなるような気もする。

数日前のアルジャジーラで、空爆を受けた市民の叫びが放映された。
医者と名乗るその男性は、高ぶる声音で、
ここには死しかない、死だ、と叫び、更に、
他国の介入が必要だ、サウジアラビアは何をしているのか、
エジプトは、カタールは何をしているのか、と助けを訴えた。

だが彼は、旧宗主国であり、現在も関係の深いイタリアや、
またはイギリスやフランスの名前はあげなかった。
もちろんアメリカも、である。

アメリカやNATOが軍事介入の可能性を示唆しているが、
もしそういうことになったとしたら、
これこそが最悪のシナリオではないか、と私は思う。
イラクのようにはならない、
短期でカダフィを倒せる、との判断にしても。

それは真に市民のデモを支持することなのか。
民主化を支持することになるのか。
私にはそうは思えない。

もしも、残念ながら、他国の軍事介入という道筋しかないとなっても、
それはやはり、映像で流された男性が訴えていたように、
アラブの隣国であってほしい。
(それが現実的には非常に難しいだろうことは、
シロウトながらわかっているけれど。)

 

シリア・ヨルダンツアーの現地アテンドをしてくれたM氏は、
バスの中での挨拶の冒頭に、
日本人の中東に対するイメージは、
欧米のメディアを通して作られたものだ、
是非ご自分の目で中東を見てほしい、と言われた。

カダフィを報じるPBCニュースで、私は、
彼のエキセントリックな言動や、
「奇妙な衣装」を揶揄するキャスターの口ぶりに、
不快なものを感じた。

確かにかつての「アラブの狂犬」は、自らの延命を、暴力で、
なりふりかまわず死守しようとする、愚かな裸の王様に見える。
だが彼が、市民数千人を親衛隊?や傭兵に殺害させたとしても、
では、他国の市民三千人を、戦争のたった一日の被害者としても平然としていた、
自国の長はどうなのか。
イスラエルのパレスチナに対する行いはどうなのか。

イランの軍艦がスエズ運河を航行した。
1979年(イラン・イスラム革命の年)以来のことだと言う。
イスラエルは反発しているが、
たとえエジプトがイスラム原理主義の国家にならなかったとしても、
中東の変動は、イスラエルの強気に多少の抑制効果はあるのではないか。
現に、欧米からの、パレスチナとの話し合いを進めろという圧力もあるようだし。

もちろん、そんな甘い、単純な話しではないだろう。
けれども私は、アラブ社会の不安定の最大の原因である、
イスラエル・パレスチナ問題の解決(とまでいかなくても改善)に、
世界は更なる言葉と行動を示すべきときがきた(とっくにきているんだけれど)とも、
思うのである。
イスラエルの入植活動は不法行為であるという国連安保理決議は、
アメリカの拒否権で発動しなかったが
それ以外の理事国は全て賛成している。
アメリカとイスラエルが、これを無視することのいびつさ。

 

アラブ社会をめぐっては、各国が独裁国家を脱していくこと、
健全な、希望のある国づくりを果たしていけること、と同時に、
もうひとつ、欧米諸国がとりくまなければいけない緊急な問題がある。
移民問題である。

ドイツ、オランダ、フランス、などの状況を少し読んだ。
(『ヨーロッパとイスラーム―共生は可能か (岩波新書)』

朝日新聞もこの三日ほど、欧州内で移民二世など、
自国の国籍を持つ若者がテロに走る姿を特集している。

欧米は、彼らに対する、近代化、民主化、という西欧同化政策の限界を、
そろそろ考えた方がいいのではないか。
移民に自国の国籍を与えたとしても、教育の機会を与えたとしても、
彼らはそれだけでは同化などしない。
各国とも、移民二世のほうがよりイスラム回帰している、
という事実は何を語っているのか。
スカーフの着用もそうだけれど、無理やり自国の論理で(力づくで)、
彼らを従わせるにはかなりの無理がある。

いずれの国にあっても、
国対国であっても、私たちは共生していかなければならないのだ。
たとえ互いに理解できない宗教や文化を持つ人間同士であっても。

  1. 引き続き中東について

    今日のワールドニュースは、ほとんどが、
    カダフィ側が反政府側が制圧している都市を空爆したことを報じ、
    飛行制限区域の制定について触れている。
    ある都市の住民は、アメリカを初めとする欧米の介入拒否を口々に訴えた。
    自分たちはイラクになるのはごめんだ、と。
    ところが別の都市の住民は、国際社会の介入を求めた。
    ロシアでも、EUでも、アラブでも、アメリカでもいい、
    もはや我々にはどうしようもないのだと。
    イギリスは国連決議がなくても制限は可能と言い、
    アメリカはあらゆる手段を検討するとしながらも、
    東西の国境に殺到している避難民への人道支援に力を入れると述べた。
    こちらも怖れているのは第二のイラク戦争である。
    その在リビア外国人の数140,000、うち中国人は35,000、
    香港ニュースによると、すでに32,000が脱出したとのこと。
    在リビア韓国人の1,000人すら薄れる数字だが(日本は100人に満たないくらい?)、
    エジプト人労働者たちが自国が助けてくれないと嘆く中、
    実に頼もしいことである。
    おとといだったか、以前はエジプトから現地情報を伝え、
    アメリカに帰国していたはずのABCキャスターが、
    トリポリに入った様子を流していた。
    空港は立派に機能し、カダフィも情報発信を望んでいる。
    カダフィは彼女とのインタビューに応じた。
    外国報道関係者用のホテルのネオンのきらびやかさが、かえって不気味だったが。
    ひとつ気になっていることがある。
    昨日の朝日のコラムで小松啓一郎さんという方が指摘していること。
    これまで目にした中では、誰も触れていないことだ。
    曰く、今回のチュニジアから始まった民主化デモの動きの背後に、
    AQIMというアルカイダ系のテロ組織がいて、
    その扇動があった、というものである。
    空気は乾燥し、草は枯れていた、だが、そこに火を放ったものがいた、
    というわけである。
    この見方によると、カダフィの、デモはアルカイダにそそのかされたものだ、
    との演説も、あながちエキセントリックなもの言いではないことになる。
    Youtubeには、このあたりを中東情勢をからめてさらに詳しく語る対談がアップされている。
    確かにありそうなことではある。
    だが、あまりに歯切れ良く、あまりに理路整然としていて、
    少し違和感も感じた。
    この場合、火をつけるものと、
    枯れた空気と乾いた草のどちらを大きいと見るのか、
    どちらを必要最低条件と見るのか。
    もうひとつ言えることは、もしもアルカイダ系の扇動があったとしても、
    彼らはテロではない手法を用いたということだ。
    さらに、このようなおおきなうねりとなるには、
    自爆テロの発生・必要条件を満たすより、はるかに大きな、
    しかも複数の要因が必要だということもある。
    チュニジア、エジプト、リビアで、
    同じような民衆デモから始まったうねりが、
    それぞれまったく異なる道筋を辿っていることからも、
    その国に固有の発生・必要条件があったということだ。
    そのいくつかを、次の日経ビジネスオンラインの記事が、
    中国にこの動きが波及する可能性を検討するなかで挙げていた。
    “中国ジャスミン革命”の実現性
    http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110228/218661/?rt=nocnt
    曰く、貧富の格差はもちろんだが、同時に、
    「民衆から起こる体制変革の運動は、ある程度の豊かさも必要条件だと言われている。
    自分の腹が減っていては革命どころではない。」
    エジプトの動きでは、私は民衆のインテリジェンスを感じた。
    そしてリビアには、『リビアの小さな赤い実』に描かれた父のようなひとびとが、
    カダフィの「緑の革命」の10年後には、小説に描かれるほどにいたということ。
    その理想は現実の生活の中で、母の中に、息子の中に、
    生き続けたのだということ。
    前政権時代の国旗を隠し持ち、都市を武力で制圧できるほどの反骨の気概。
    部族社会のまとまりと固有性が保たれていたこと。
    カダフィの軍に対する不信が民衆にプラスに働いたのは、
    歴史の皮肉というか、神の思し召しというか。

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