「聖少女」倉橋由美子

posted in: 読書NOTE | 0 | 2008/5/8

しばらく前に桜庭一樹の「私の男」を読んで、彼女がずっと頭にあったというこの本のことが気になっていた。

父親と娘との近親相姦が同じようにモチーフになっている。

最初未紀の語り口に少し違和感があったが、しばらくしてこの本の語り手(あるいは書き手?)のKが語り始めるとすんなりと入り込み、一気に読破。

今日ネットで評を検索していて、またもや松岡正剛氏の千夜千冊にたどりつく(他の本の評よりも力が入っている気がした。それだけ思い入れが強いらしい)。

1965年、倉橋由美子29歳の作。
29歳でここまで書けるのかと驚嘆し、いや29歳だから書けたのか、とも思う。
私の29歳はもっと未熟で、言葉を持たず、ただ同じようにとんがってはいたけれど。

モチーフの斬新さ。
既成の体制や価値観につきつける”ノン”のモチーフとして、父親と娘の関係という”タブー”を選ぶ大胆不敵さ。それが29歳だし、たぶん倉橋由美子にとっての65年だったのだろう。だがそれが他を突き抜けた65年であることは確かだ。

対するKの繰り広げる「犯罪」の子供っぽさ(どれほど凶悪であろうとも)。彼もまた姉Lと関係しており、一見すると未紀と対等に”ノン”を体現しているように思える。だが、未紀の確信犯的な一途さ、迷いの無さはKにはない。
彼はわけのわからない衝動に生き、そのことを後悔こそしていないかもしれないが(だがやはり逃げるために?)、アメリカ留学のヴィザを待っている。

構成、語り口のたくみさ。
事故で記憶を失った未紀がKに解読して欲しいと送ってきたノートの、自分と”パパ”のことをつづった物語、それが現実の父の死で、ある部分はフィクションで、実は現実の関係を覆い隠すものでもあったことがわかるという設定。

さらにはKも作中で書き始め、この物語はKの書いたものかもしれない、などと読者の目をくらませる構成(二重三重の物語の入れ子に、”作家”とKに呼ばれている、やはりものを書く人間を登場させていることも興味深い)。
「聖少女」はしかけの多い物語だ。

未紀のノートや、記憶喪失や、彼女がその回復をKに黙っていて、最後にそれが明かされることやらが時間を行き来しながら終章に流れて行く。そしてたどりついた地平は、大人になること。

そこまで行くのに、聖なる少女や少年は、かくも多くのものを葬り去らなければいけないということ。
その、大人になることの魂を抜き取られたような、虚しさ(それを引き受けようとするKの覚悟に、触れるべきだろうか。だがすでにその覚悟は、選択というよりあきらめに、放棄に近い)。

桜庭一樹は、「この国で書かれた最も重要な少女小説」と解説に記している。

◆「聖少女」倉橋由美子(新潮文庫・1965年初版、2008年2月改版)
 

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