ラ・マスケラ -仮面- <第四章> ii

posted in: ラ・マスケラ -仮面- | 0 | 2009/3/25

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<第四章> ”悪魔の橋 

 

      ii

ジンはディーになって、暗い迷路のようなヴェネツィアの小路を逃げている。
何もしていない、信じてくれ!
胸のうちで弁明を繰り返す。

だが本当だろうか。
僕は本当に何もしなかったのだろうか。

そうでもしなければ、ミーナは自分のものにならないと、
思いつめていたことは確かだ。 あまりに思いつめすぎて、
知らぬうちにそのことを実行に移してしまったのではないか……。

ほの暗い街灯に照らされた小路の先は、霧に覆われた運河だ。

行き止まりなのか!

冷や汗が背中を濡らす。
ふと手に何か握っているのに気づく。短刀だ。
こんなもの捨ててしまわななければ……。

だが恐怖が身体を強張らせ、身動きができない。
固く握った手のひらが、どうしても開かない。

さっき、この手を振りかざして、僕はルイジ! と男の名を呼んだ。
振り向いた男の顔に、おびえが走る。
だがその顔は……

その顔は、ルイジではなくディーだった!
ジンは苦渋に満ちた叫び声を上げる……。

うるさいぞ! と、隣の牢獄の囚人が鉄格子をたたく。

あぁ、囚われていたんだった。

胸のうちに安堵の思いが広がって行く。
もう逃げなくてもいい、
いや、もうあの男を追わなくてもいいのだ……。

鉄格子をたたく音は弱まっていた。
だが音はかすかに、繰り返し鳴らされた。
それが ドアチャイムの音だと気づき、ジンは目覚めた。
びっしょりと汗をかいている。
夢の禍々しさが、まだ胃の辺りに残っていた。

時計は7時をまわっている。
リュウが起こしてくれると言っていたので、アラームもセットせずにいたのだ。

リビングに出てみると、
昨夜ドアの近くに積み上げたカメラの機材が消えていた。
リュウはジンを起こさずに、出て行ってしまったのだ。

テーブルの上にメモがある。
『おまえの見送りじゃありがたくも無いから、辞退するよ。
どうせまたすぐ会うんだし』

リュウとは夕べ遅くまで飲んだ。 たいした話をしたわけではない。
ジンは、心の底で蓋を開けられた、
黒々としたものが詰まった箱を、覗き込むようにして飲んでいたのだ。

リュウはただ黙ってそれに付き合ってくれた。
そして何も言わずに出て行ってしまう。
リュウはそういう男だった。

ドアを開けるとユキが立っていた。
少し驚きながらも、部屋に招じ入れる。
約束の時間にはまだ2時間もあった。

「随分早いですね」
「ええ……」 ユキの瞳が揺れた。
「 どうかしましたか?」 ユキは答えない。

「朝食を頼みますが、ユキさんは?」
ユキが何も言わないので、ジンはルームサービスのダイヤルを回し、
二人分の朝食を頼んだ。

「着替えてきます」

ジンは急いでシャワーを浴び、クローゼットの前に立つ。
バスローブを脱ぎ、ジーンズに足をいれる。

そのとき、寝室のドアが開いてユキが入ってくるのが、
クローゼットの扉の鏡に映し出された。
ジンは振り返らずに、鏡の中のユキの視線を捉える。

ユキはしばらくその視線を受け止めたあと、ジンの背後に歩み寄った。
もう、ユキの顔は見えない。

ユキは手のひらを、ジンの裸の背中に這わせ、
そのまま胸を抱くように前に回す。
背中に押し当てられた頬は熱く、
コートの柔らかい布地は、外気を含んでひんやりと冷たかった。

ジンはユキに向き直った。
からみついていたユキの腕は一瞬だけ離れたが、
そのあとはいっそう強くジンにしがみついてくる。

バランスを失い、ジンはベッドに腰を落とした。
するとユキは全体重をかけ、ジンをベッドに押し倒すような格好になった。
いつのまにか、ユキはコートも靴も、脱ぎ捨てている。

「ユキさん……」
その行動に戸惑いながらも、
ユキの一途さを無神経に退けることが、ジンには出来なかった。

ユキの唇はもう降りてきている。
ジンはその唇を、受けとめた。
橋の上でゆっくりと暖かく溶けていった唇が、今は熱く燃えている。
ジンのからだも反応していく……。

ユキはミーナになってディーを求めているのだろうか。
それともミーナになりたいと、ジンを求めているのか。

いや、そのどちらでもない。
ユキはユキのまま、ジンを求めているのだ。
それに応えてはいけないと、ジンの理性は告げている。
だがユキの想いに、応えられるものなら応えたい自分も、確かにいるのだった。

そのとき、ドアチャイムが鳴った。だがユキは体を離そうとはしない。
「待ってください。朝食がきた……」

今度は立て続けに二回、チャイムが鳴らされた。
ジンが 「今行く」 と声を張り上げると、
ようやくユキはあきらめたように、からだの力を抜いた。

ドアを開けると、歳若いボーイがテーブルワゴンを押しながら部屋に入ってくる。
にこやかな笑顔を浮かべたまま、運河を見渡せる窓の前にワゴンを置き、
部屋の隅からイスをふたつ持ってくると、
ワゴンを挟んでむき合わせになるようにセットした。

チップを渡すと、ジンの顔を見る若者の笑顔がひときわ大きくなった。
ジンはドアを閉め、若者の視線が注がれていた唇を手でぬぐってみる。
ピンクベージュの口紅が手の甲についた。

ソファーには女物のバッグが投げ出されているのに、その女はいない。
男は半裸で、唇には女の口紅……。
二人分の朝食を届けてくれたボーイの笑顔の意味がわかって、ジンは苦笑した。

リュウの部屋のバスルームに入り、冷たい水でざぶざぶと顔を洗う。
ユキを抱くことはたやすかった。
だがジンはユキを前に、自分がパク・ナムジンを捨てる事ができないと知っている。

ミーナとディーとしても、ユキとジンとしても、抱き合うことはできる。
だがどちらにしても、監督パク・ナムジンが、
抱き合う男と女を、カメラを回しながら追ってしまうのだ。
それはきっとユキを傷つける。ピュアな欲望には、ピュアな欲望で応えたかった。

「ユキさん……」
ジンはドアの外から呼んでみる。答えは無い。

仕方なくドアを開ける。
ユキはベッドの上で、まっすぐ仰向けにかだらを伸ばしたまま、
天井を見つめている。

ジンは寝室に入り、クローゼットからシャツを取り出すとそれをはおった。
「朝食、一緒に食べませんか?」
ユキは身じろぎもせず、天井を見つめたままだ。

ジンはベッドにかがみ込み、ユキの肩を抱き起こす。
切なげな瞳が、ジンを見た。
瞳の中にもう欲望の炎はない。

そのまぶたにジンは口づける。
そっと抱きしめ、乱れた髪を撫でる。
「私では、ダメですか?」 ユキが口を開いた。

「そうじゃない。
あまりにあなたは魅力的で、僕もあなたが欲しくなった。でも……」
「映画のためにならない?」

「いや、映画のためというより……」
ジンは言葉を捜す。
確かにユキが傷つくのを恐れる気持ちは、
傷ついたユキが映画に及ぼす結果を恐れる気持ちに、つながっている。

「映画が僕たちの間にでんと横たわっているのは、仕方ありません。
だが、これはあなたらしくない……」
「でもミーナなら、きっとこうするだろうと思えて……」

「ミーナになりたい?」
ユキがうなずいた。
ジンはユキのうるんだ瞳を見つめながら言う。

「この続きは、映画でしましょう……」

ユキは静かに、テーブルワゴンの前に座った。
朝食はもう済ませてきたからと言いながら、
それでも果物を少し食べ、コーヒーを飲んだ。

ジンは次から次へとりんごの皮をむき、ユキの前に積み上げる。
ユキがおいしいと言ったからだ。

胸を焦がす炎を抱え、それに耐えているユキは美しく、愛らしかった。
ジンにはようやく、ユキを奔放なヒロイン役に抜擢した監督の気持ちがわかった。

肉体の欲望と、清らかに澄み渡った心が、何の矛盾も無くユキの中にはあるのだ。
聖なる淫蕩さを引き出したいと、監督は思ったのだろう。
ジンもまた、それを見事に咲かせてみたかった。

ジンは胸の中でつぶやく。
映画の中で、あなたを思う存分愛そう。あなたを、最高に輝かせてあげよう。
僕たちは映画の中で、燃え尽きよう。
それがあなたに対する、僕の答えなのだと。

ヴェネツィア本島が浮かぶラグーンは、
ほぼ南北に走る、三箇所の切れ目のある細長い砂州で閉ざされている。
本島は西が頭で東が尾の、魚の形だ。

その南の腹の辺りに、ホテルはあった。
トルチェッロへ向かう船が出るフォンダメンテ・ヌオヴェは、北の背の部分となる。

何度も細い通りを折れ曲がって歩きながら、
フォンダメンテ・ヌオヴェとは新しい河岸という意味だと、ユキが教えてくれた。

海に面した岸辺を河岸と呼ぶのが面白かった。
たくさんの小島を楔のように繋ぎ合わせている橋のその下の、
満ち引きのある海の水を運河と呼ぶヴェネツィアの人にとっては、
長い洲で閉ざされた内海は、どこも河なのかもしれない。

ナミが、近づいていくジンとユキに気づいて手を振った。
ユキが駆け寄り、ナミとイタリア式の頬を合わせる挨拶を交わす。

ナミはジンにも頬を差し出してきた。
最近はジンもこの挨拶に慣れ、右、左と交互に頬を軽く合わせ、
ナミが舌先から出す小さなキスの音を、耳元で心地よく聞いた。

「よく眠れましたか?」
ええとナミは肯いたが、化粧でも隠し切れない目の下のクマが、
その言葉はウソだと語っている。

「ハイ、忘れ物」 ナミがジンの携帯を差し出す。
「ああ、それで…… 何度電話しても出ないはずだわ」 ユキが言った。
ナミが小さな笑い声をたてた。
その声に、ジンは安堵する。

ヴァポレットは、右手すぐ近くに、
レンガの塀にぐるりと囲まれた小さな島を見て進んでいく。
塀の内側にはヴェネツィアにはめずらしい糸杉が、何本も天に向かって伸びている。
墓地の島、サン・ミケーレ島だ。

花を持った老婦人を乗せた小船が、島の船着場を目指している。

全てのものが海を渡ってやってきて、また海を渡って出て行くヴェネツィアでは、
死んだ者もまた、水の上を、生者の島から死者の島へと渡っていくのだ。

ほどなく船はヴェネツィアン・グラスの島、ムラ―ノ島で停まり、
大勢の観光客がそこで降りた。

しばらくすると、船の右や左に、
枯れた草で覆われたちいさな潟が現われては消える。
空港は左手の湾の奥にあるようだが、影すら見えない。

そのゴンドラは、観光客が乗るゴンドラとは少し様子が違っていた。
こぎ手はお揃いの麦藁帽子をかぶってはいないし、
青い横じまのシャツを着てもいない。全身が黒づくめだ。

座席には恋人同士はおろか、誰も座っていない。
だがそのかわりに、布に覆われた大きな細長い箱のようなものが、
こぎ手の立つ船尾以外のスペースを占有している。

ゴンドラの客は、その箱の中に横たわる死者なのだ。

トルチェッロに向かう水上バスの甲板で、
ディーとミーナは言葉も無く、海を渡っていく棺を見ている。

二人はデッキからしばらくラグーナの風景に見とれていたが、
やがて船室のベンチに座る。
ポケットからディーが航空券を取り出した。
「一週間後だ。朝、水上タクシーで迎えに行くよ」

ミーナはじっと、そのチケットに見入る。

しばらくしてから、ようやく言葉を発する。
「私、後から行くわ。約束する。
だからルイジの最後の仮面が出来るまで、待ってちょうだい。
そうすればルイジだって私とあなたのことを祝福してくれると思うの」

「ミーナ、それは違うよ。
彼は仮面など作らないさ。
君を手元においておくために、永遠に仮面を完成させることなんかないだろう」

「あなたこそ違うわ!」 ミーナが叫ぶように言う。

後ろの席の、窓の外を見ていた中年の女性が視線をミーナに向ける。
だがすぐに興味を失ったように、また窓の外を眺め始める。

「どう違うというんだ?」
ディーの声は低かったが、そこには苛立ちが込められている。

「あなたは、ルイジにとって仮面がどれほど大切なのかがわかっていない。
仮面を作ることが、生
きることなの。
彼の頭の中では仮面が、早く作ってくれ、外に出してくれと、叫び続けているのよ」

ものを創り出す情熱と焦燥を、ミーナは説いている。
それを頭では理解できても、やはりディーはすんなりとうなずく事ができない。

「じゃあ君は、僕の気持ちはどうでもいいのか!」 つい、声が荒ぶる。

ミーナは何か言いかけたが、そのまま黙ってしまう。
ディーに表情を見られないように、窓の外を見る振りをして顔をそむける。
そして悲しそうに、ラグーンの上に舞い降り、また飛び立つ水鳥を目で追い続ける。

 

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