色・褪せない ③ 複数の性

posted in: 色・褪せない | 0 | 2010/10/26
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私家版私の好きな女たち/アナイス・ニン(2)

『ヘンリー&ジューン』 アナイス・ニン 杉崎和子/訳 角川書店 1990年
『インセスト』 アナイス・ニン 杉崎 和子/訳 彩流社 2008年

 

◆分裂

ヘンリーと踏み込んだ世界は、
単に夫以外に愛人を得た、というにとどまらないものを、アナイスに与えた。
アナイスは、初恋の相手であるいとこのエドワルドとも性関係を持つ。
同時に、夫との関係は複雑なものになっていく。

ヘンリーと「二度目の愛」を交わした日の夜。

「君、今晩は最高にきれいだ。活力が満ち満ちている感じだ。
その自信が一体どこから来ているのか、不思議だな」

その晩も、ヒューゴーが私を欲しがった。
そして、私の良心は死んだ。

私の躰は、知らぬ間にヘンリーの囁き声の命令に従っていた。
脚をからめて、ヒューゴーの腰を締める。
夢中になって彼は叫び声をあげる。
「ダーリング! ダーリング! 何をしているんだ! ああ、凄い、初めてだ……」
私は夫を裏切った。欺した。それでも、世界は硫黄色の霧の底に沈みはしない。
狂乱の勝利。もう私は人生のモザイクをまとめることはできない。
ただ、泣き、笑うだけ。

怖ろしいパラドックスを認識している。
躰を開き、他の男に与えた私は、ヒューゴーを前よりは愛せるようになった。

そして、真実は、これがたった一つ、私にできる生き方だということ。
二つの道、二つの生命が要る。私は二つの存在。 (『ヘンリー&ジューン』以下同)

エドワルド、ヘンリー、そしてジューン、
二重どころか何重にも、彼女の性は分裂していく。

ある日、ヘンリーが、自分のことを棚にあげて、
アナイスのような女の道徳観念のなさが許せない、と言い出す。

彼自身、節操もなければ、平然と女を裏切るのだが、
女がそれをするのは許せないらしい。

ヘンリーだけじゃない。私も腹を立てている。
だが、女たちが無節操だからではない。
女たちが生きている現実の生が美しくないからだ。

そして夫には、心のなかでこうつぶやく。

この頃は、毎日、あなたに嘘ばかりついているけど、
私の中に入る愛が、多ければ多いほど、私から、あなたにあげる愛も多くなる。
私が自分を狭めれば狭めるほど、あなたにとって、
私はつまらない女になるわ。

もっとはっきり言うとね、たとえば、あなたが大好きな私は、
あなたへの愛のために、ほんとの意味で生きる、ということを諦めてしまったら、
あなたの前にいるのは、ひれふす尼僧。

ヘンリーの腕からあなたの腕へ、するりと滑りこむ私は、
ひどい悪女かもしれない。
でも、常識的な誠実さなんか、私には意味がないの。
そうした規範では生きられないのよ。

私の言葉だけがあなたの知識。
秘密の痕跡は、私の躰にもない。
嘘をつくということ、私のような嘘をつくということも、 生きるということなのよ。

このアナイスの言葉を、あなたはどう聞いただろう。
彼女の論理に、(自己)欺瞞や保身を見ただろうか。
だが、(自己)欺瞞や保身と無縁のものなどいない。
ここでは、彼女を裁く規範や道徳観念は、この際、私たちも忘れてしまおう。
善も悪も、分けるのをよそう。
彼女の『日記(無削除版)』は、そのようにして読まれるべきだ。

春から夏。ヘンリーとのセックスは激しさを増していく。
そこに「愛」はあるのか。
せき止められていた欲望が、ただ放たれただけではないのか。
刺激しあい、理解し合える作家として、あるいは友としての、
精神の結びつきはどうなのか。
アナイスの記述は、なかなか一貫しない。

一方ヘンリーは、早い時期から、アナイスが特別な存在であることを認め、
結婚や駆け落ちを口にするようになる。
アナイスも、「その愛を、私は衣服のように着る。
こんなに人を愛しているなんて、そら怖ろしくなる」 と記すようになっていく。
だがアナイスは、ヘンリーの求婚や駆け落ち話しを、
決して本気で取り上げようとはしない。
ヒューゴーを傷つける恐怖と、ジューンの「支配」から逃れられない。
ヘンリーがジューンと別れられるとも、思えないのだ。

 

◆浮上する言葉

ヘンリーとの関係が深まりつつあった4月、
アナイスは精神分析医、ルネ・アランディの許に通い始める。

アランディは、もともとエドワルドの分析医で、
後にはヒューゴーも彼に分析を受けるようになるのだが、
驚くのは、アナイスがアランディを誘惑してしまったことだろう。

これは、治療の過程で生じる感情移入とは、少し違うように思う。
アナイスは、絶対的に君臨する分析医に、
自分自身にも認めたくないような己の姿を打ち明ける心もとなさ、
患者は医者の解析を拝聴するしかないという力関係を、
完全には受け入れられなかったのだと思う。

ただ、日記ではなく一人の生身の人間に、
自分の性愛の(ほぼ)総体を語れた、ということは大きかっただろう。
たとえアランディに物足りなさを感じたとしても
(アランディの分析に、的外れや違和感を記してもいる)、
自らを見つめるため、そして創作の手法として、
精神分析を取り入れる手ごたえは、つかんでいたのではないか。
この頃、(女としての)自信のなさを、 幼い少女に刻み付けた存在=父を、
分析的に自覚した記述も見られる。

年上の男性を征服すれば、私の自信が裏づけられるのか?
私は苦しみを探しているのか?
ヘンリーの、むしろ冷たい視線を浴びて、私が感じることは
–父の青い瞳のように冷たかった–その青い瞳たちが、
私への欲望で溶けて欲しい、ということ。

分析を受けるようになってからの、アナイスのジューンを記す言葉は、
愛する男を共有するもう一人の女に対する憎しみや嫉妬など、
あからさまに、そして少しありきたなものになっていく。
それらを経て到達した、一番正直な言葉は、次のようなものだと思う。

ジューンは大嫌い、が、彼女は美しい。
ジューンと私は、溶けてひとつになる。そうなるべきなのだ。
ヘンリーは、一つになった二人を愛せばいい。
私もヘンリーとジューンが欲しい。
ジューンはどうなのか? 彼女なら、すべてを欲しがるだろう。
彼女の美しさは、あらゆるものを要求してはばからない。

アナイスにとって、ジューンは、その美しさと強烈な個性で、
彼女を魅了するだけの女性ではなかった。
ヘンリー(と、男や社会)に理解されないジューンの苦しみを、
自分の中の呼応する部分と共に、 彼女は繰り返し説いてもいた。
ヘンリーも、アナイスの言葉に真摯に耳を傾け、
やがてそれは『南回帰線』のヒロインに結実していったようだ。*
ジューンとの一体感(への欲望)には、そのような理解と共感もあった。

ヒューゴーに対しては、「彼への愛は兄弟愛のようになってしまった」と、
性愛が失われてしまったことを嘆き、にもかかわらず、
偽りの性を演じなければならない苦痛を、正直に明かす。
それらは、文学的な修飾や美化、自己弁護を剥ぎ取った姿であり、言葉である。
そして、次のような確信も得る。

私の生活の論理も調和も、ヘンリーとジューンに壊されてしまった。
でも、それでよかったのだ。パターン化した生活は生活ではない。
今は生きている。

それでも、私の中にある何かは、ヒューゴーを超えて、彼の輪の外側で、
確かに成長しようとしている。

アナイス・ニンの日記は、日記なので当然だが、
物語のように、ストーリーや感情の流れが整理されているわけではない。
だが彼女の日記を読む楽しみは、まさに、
一人の女の、感情の移ろいを記す言葉に身をゆだね、
その内面世界を共に探索するところにある。

アナイスは性愛の描写にも、こころを砕いた。
なんとか肉体のありのままの声を、書き記したいと望んだ。

ここからは、どう書けばいいのか分からない。生まれて初めての体験だから。
あの時間のあまりの密度の高さ、激しさに目が眩んでいるから。
私が覚えているのは、ヘンリーの貪欲さ、エネルギー。
「君のお尻はステキにきれいだ」って言われたこと。湧き出す蜜。
凄まじい快楽の波。終わりのない融合。平等な快楽。
待ちに待っていた性の深さ、暗さ、究極、赦祷式。
躰の芯に触れる男の肉は私を征服し、濡らしながら、力強くその焔をよじった。
「感じるかい? え、感じるか?」
私は何も言えない。目も頭も血で一杯だ。言葉は溺れてしまった。
意味も音も不確かな、叫び声しか出せない。
女の躰のもっとも原始的な根からあがる叫び声、
子宮から蜜のように迸り出る咆哮。

これでも、事実を書いたとは言えない。
今の私の力では、あの日を描ききるだけの深さも激しさもない。
だから飾りも隠しもする。でも、私は諦めないで書き続けるわ。
私の魔術がひそかに創り出していたとおりの、あの暗く、壮麗な、狂おしい、
めくるめく、激しい官能の恍惚へ落ちていった瞬間を描ききるまで。

アナイスは、女性の性の実態を、驚くほどの率直さで語ってもいる。
日記だから書けるかというと、それは違う。
1930年代だろうと、2010年代だろうと、
自らの性の現実を認識すること、それを言葉にすることは、たやすいことではない。

彼女はアランディーに、ヘンリーとの濃密なセックスにおいても、
いつもオーガズムを得られるわけではない、と明かした後、
「女を歓ばせたかどうか、男の方にはわかりますの?」 と、問い返している。
「80%の男性は何もわからないのだ」 とアランディは答えるが、
私たちが性を交わすとき、相手に応える肉体の言葉は、しばしば、
思いやりか力関係か、それとも植えつけられたジェンダーイメージかは知らないが、
相手にずれて届く。
そしてそのずれは、女自身によっても、見ないふりをされている。
最も真実を差し出し、受けとりあっているはずの瞬間にひそむ偽り。

ここを出発点にした描写や作品を読みたいものだと思う。
「美しくない」現実を生き延びるために、「美しい」イメージや夢、 神話、
つまり幻想を、私たちは切実に必要としているけれど、
幻想を見据えた、あるいは突き抜けた描写、
これは幻想なのだ、という認識の上に築かれた作品も、読みたいのだ。

さらにアナイスの日記を通して浮かび上がってくるのは、
一筋縄ではいかない性愛の多面性、とらえどころのなさだ。

エドワルドには、妹のような愛で性に応じる。
彼が男としての自信を回復するためには、そのとき性関係を持つことが重要だと、
理解していたからだ。
だが、彼の「美しさ」に、彼女の欲望が噴出するときもあった。

ヘンリーに対しても、「愛」があるときも、ないときもある。
強い、奔放な、暴力的な男を求めて、いったんはそれを得られたと思ったのに、
ヘンリーはいつの間にか、弱く、優しい、几帳面な男の顔を見せるようになっていて、
組み敷かれたいと思っていたアナイスの好みも、
上になって自分の快楽を追求するのが好きだ、などと変わったりもしている。

ヒューゴーに対しては、歓びを分かち与えるような性もあれば、
欺瞞的で心のない性もある。
ヘンリーが娼婦を買うのに嫉妬して、
彼に対する復習のように、ヒューゴーに欲望が燃えることもあった。

アランディーとの関係は、これらとはまた違うものだ。
好奇心、征服欲。「一つの『体験』にすぎない」。

そしてジューンに対する欲望。
夢のなかに閉じ込められ、眠っていた性。

性を交わす相手が複数だから多様なのではない。
一人の人間の中に、同じ相手にさえ、さまざまに形を変える性があるのだ。
そして、愛と欲望も、欲望と快楽も、快楽と愛も、
けっしてぴったり重なりあっているわけではないのだ、ということ。

◆崩れる均衡

1932年、10月。
アナイスが恐れ、待ちわびていたとき。

昨夜、ジューンが帰ってきた。

タクシーの中で、私はジューンの腕に抱かれている。
その腕に力をこめて、「あなたは、私に生命をくれたわ。
ヘンリーが取り上げてしまったものをあなたがくれたのよ」と彼女は言った。
私も、同じような熱い言葉を返す。

タクシーの中での、この場面は–膝が触れあい、手を握り、頬をつけて–
私たちが、それぞれの心の底に横たわる敵意を、意識しているかぎり、
続いていくことだろう。

けれども、戻ってきたジューンは「正常」で、「ヒステリックでもなければ、混乱してもいない」。
ヘンリーからは、しみじみと正直な「美しい」手紙がとどく。

君を愛している。かつてないほど愛している。ほんとうだ。

だが、今さら、手遅れだという気もする。今となれば、ジューンと共に、
しばらく、美しい嘘を生きていくよりほかに、道はない。

僕を憎みもし、軽蔑もするかもしれないが、それも仕方のないことだ。

ヘンリーとジューンに出会ってから、もうすぐ一年。
大きく変わったものがあり、変わらずに残っているものがあった。

 

【参考】

*ヘンリー・ミラーのテクストに響くアナイス・ニンの声 — 中村亨
『ヘンリー・ミラーを読む』より 本田泰典+松田憲次郎/編 水声社(2007.12)

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