「I’m sorry, mama. 」桐野夏生

posted in: 読書NOTE | 0 | 2008/5/11

桐野夏生の作品の中で最初に「I’m sorry, mama.」を取り上げることになろうとは思ってみなかった。私としてはむしろ「玉蘭」に思い入れが強いのに。あとミロのシリーズも好きだ。
なのに何故この作品なのかというと、たまたま私は昨夜怒っていたからだ。怒りに気持ちがささくれだっていて、こんなときはこれだと手に取った。

善人にうんざりしていた。中島義道はいい人の鈍感さががまんできない書いているが(「私の嫌いな10のひとびと」)、このところ私も同様に思うことが何度か重なり、それまでは実害がなかったのが眼前に現れた人の好意が被害に変わる(本人はそうは思っていないのだが)に及んで、たまったうんざりが臨界点に達しそうだった。だから極めつけの悪人の話を読もうと思ったのだ。

しばらく前に買ってあった文庫本は、はじめて手にしたはずだった。だが読み進むうちに、二度目だと気づいた。いつ読んだのか記憶にないけれど、何冊かまとめて彼女の作品を読んだときに、購入したものではなくて図書館で借りたもののなかに、これも混じっていたのだろう。
だがそのときは読み飛ばしてしまい、あるいは他の作品の影に隠れてしまったのに違いない。たぶん「OUT」とか「光源」とか「グロテスク」とかの影に。

今回も読み飛ばした。だがそれは悪い意味ではない。ある種の小説には、オートバイにまたがってアクセルを全開にし、ブレーキなど一切かけずに、ひたすら闇の中を走り抜けるように”読み飛ばす”のが正当な読み方だと思えるものがある。「I’m sorry, mama.」はそういった種類の小説だと思う。

桐野夏生の小説には、ミロのシリーズとか、「OUT」の終章とか、物語の疾走間が一段と増していく箇所がある。たとえそれが四輪の安定した車であろうと、ぐっと一気にアクセルを踏み込んだような加速感に、体が背もたれに押し付けられるように感じる。運転しているのは桐野夏生なのか、あるいはそれを読む自分なのか。いや読者は作者と一体化して、あるいは作者が作り上げた主人公に一体化して、逃れようも無くハンドルにしがみつき、必死に前方に目を凝らすのだ。

「I’m sorry, mama.」は紛れも無く四輪ではなく二輪だ。最初から不穏に滑り出し、徐々にスピードを上げ、気づいたときにはオートバイから降りることも、まして疾走をやめさせることもできない。

二度読むことになってよかった。他の作品の陰に隠れて忘れ去られないでよかった。
平然と悪事を重ねるアイ子だけでなく、他の登場人物の全ても不気味で、破綻しているか、あるいはしかかっていて、醜悪で、それでもアイ子以外の人々はすれすれのところで(世間的に)”悪”が露呈しないでいる。

それらの”悪”はかろうじて覆い隠され、許容され、無視され、あるいは利用されている。次々になされるアイ子の悪事の前で彼らの”悪”は可愛いものだが、悪とはこのように万人の中に種や根を持ち、十分な養分を与えられればすくすくと育つものなのだろう。
それはけっして、一握りの特殊な人のものではない。

「こんなふうにしか生きられなかったのよ!」作中の誰かがこう叫んでいた。だがこれはアイ子の、他の登場人物全員の叫びだ。
どこにも救いのないようなアイ子の物語を、私は奇妙なすがすがしさと共に読み終えた。
それは、『真人間になる、これからは真人間になります』という夢の中のアイ子の不確かな反省のためではなくて。

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—繰り返し求められ、破壊される「母」のイメージ

物語を導く道の一本は「星の子学園」という施設だ。もう一本の幹線が、そこに8歳で入園するまでアイ子が育った「ぬかるみハウス」と言う娼婦の置屋。

物語の第一章では、「星の子学園」の保育士美佐江と園児であった稔の歳の離れた夫婦が、他人の見ていないところでは「母ちゃん」と呼び、呼ばせる、擬似親子として暮らしてることが明かされる。アイ子に再開したことで彼らの幸福な暮らしは一瞬の後に破壊されてしまうのだが。

置屋のおかみは娼婦たちから「母さん」と呼ばれている。こちらも別の意味合いで擬似親子である。吹き溜まりのような運命共同体に暮らす彼女たちに、習慣と化した呼び名は違和感がない。

アイ子は置屋の片隅で、誰にも愛されることなく、あるときは娼婦たちのいらだちのはけ口として虐待されながら育つ。母の形見だと渡された古びた白い靴をママと呼んで。

物語の二本の幹線に交差するように、ホテルチェーンのオーナー志都子が一見脈絡なく登場し、物語を横断していく。彼女は息子をなくし、夫が浮気相手に生ませた子供を引き取って育てようとしている。だが幼い子供は彼女のエゴイスティックな執着におじけずいている。「巫女経営」と呼ばれる彼女が経営するホテル業でも、彼女と支店長との間には母と息子たちのような感情の絆が見える。だがそれは真の絆ではなく、仕組まれた錯覚に過ぎない。

繰り返し「母」が求められ、現れる。あるいは誰かがいつのまにか「母」の顔をして、あるいは呼び名だけをまとい、そこにいる。だがそれらの「母」は仮面をはずまでもなく、すでに「母」という属性を失っている。またはそのいかがわしさを露呈させている。

皮肉にもずっと求めていた母をアイ子は自分の手で殺してしまう。夢の中で「お母さん」と呼びかけるアイ子を母親であるエミは拒絶する。彼女がアイ子を生んだいきさつの悲惨さから。

「じゃ母性愛は」というアイ子の質問をエミは笑い飛ばす。
「んなもん、幻想に決まってるさ」

一番「母」らしいのは擬似親子を自覚的に演じていた美佐江か、あるいはいつもアイ子の話を黙って聞き、アイ子のすることを肯定してくれた白い靴なのかもしれない。

◆「I’m sorry, mama.」桐野夏生(集英社文庫 2007年11月)
 

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