「ゲーテ『イタリア紀行』を旅する」牧野宣彦–甦る「ミニヨン」のあこがれ

posted in: 読書NOTE | 0 | 2008/4/29

イタリア紀行というのは不思議な本だ。決して読みやすくはない。
私自身手元にある岩波文庫の全てを読んでいないと思う。この本はすこしほおってくとどこまで読んだかがわからなくなる本で、だからたぶん最後までは読んでいないだろう、としか言えない。
読みにくいのは日記のような(叶わなかった恋の相手への手紙ということだが)、一般読者を対象にしていない文章のためだ。初版が1942年!だから訳文のせいもあるかもしれない。

私がこの本を買ったのは1990年、フィレンツェに6ヶ月滞在する間に読もうと思ったのだ。だがそのときに読んだのは上巻だけで、それは帰国する際にたまたま数週間同宿した日本人の男の子にあげてしまった。だから手元には中と下だけがある。あげてしまったのはそれほど執着がなかったからか、それとも少しでも荷物を減らしたかったからか、それもよく覚えていない。

それなのに、いくつか鮮明な場面が記憶に残っている。なかでも一番印象的なのは、鬱屈をかかえてイタリアへの旅の道をたどるゲーテが、その思い悩む姿を見かねたイタリア人の馬車の御者に、「考えるな、考えるからいけないのだ」と言われる場面だ。この言葉はゲーテにも深く突き刺さったが、同様に私の中にも深く入り込み、残った。

この場面がどこに出てきたのかは定かでない。私の手元には無い上巻の、おそらくゲーテがイタリアに入って間もない頃のことではないかと思う。牧野氏の本でも触れられていない。だが私にはこの場面は、初めてゲーテが、イタリア的なるものに触れた重要なエピソードに思える。旅で出会うのは風景や建築、料理ばかりではない。

著者は、ゲーテがイタリアへ旅立つに至る動機を、恋愛と詩作に対する、また政治家としての行き詰まりにあると列記している。筆頭にあげられた恋愛からしてプラトニックなもので、となると全ての行き詰まりは頭脳の問題だ。そのゲーテの硬直した頭脳を覆う殻を、イタリア人の御者の一言は見事にうちくだいた。ここから、ゲーテの詩人として、人としての再生が始まるのではないか。この「再生」の記録が「イタリア紀行」なのだと、私は(不届きな斜め読みながら)受け取っていたように思う。

だからあれから15年あまりたった後に、初めてのオリジナルな物語をイタリアを舞台に書いたとき、主人公が前に一歩踏み出す場面で、するりとこの言葉が出てきたのだろう。私は自分の物語を、おこがましくも「再生—イタリア紀行」と名づけた。

今見ると、中巻のカバーの裏にゲーテの言葉が抜粋されている。
「この地には全世界が結びついている。…このローマに足を踏み入れたときから、第二の誕生が、真の再生がはじまるのだ」

それは辻邦生がローマで、アレッツォで、感じ取ったことにも通じる。それは私がイタリアに滞在しているときに獲得し、帰国してからも出かけていくたび何度でも同じように感じ取るものでもある。イタリアではいつも、自分の中になにか、生きていく上で大事な力のようなものが満ちてくるのを感じる。

著者は10年来イタリアに住み、ゲーテの訪れたところをほとんど見て廻って、それでようやく“難解な”「イタリア紀行」が良くわかるようになったと言う。「イタリア紀行」は写真がないと読むのが難しい作品なのだと。そのためこの本は、数多い写真と共に、たんねんにゲーテの足取りを追うものとなった。

すんなりと、この本は読むことが出来た。時系列に沿って出てくるゲーテのたどった地名が、見知った土地ではなつかしく頭に入ってくるが、そうでないところではときおり、急行列車で通り過ぎる小さな駅のように背後に消えてしまうのは、仕方がないだろう。

それでも、そうかゲーテはここにも行っていたのかと嬉しくなるだけでなく、よし、今度はここに行ってみようと胸を躍らされたりした。もう一度「イタリア紀行」を読みたくもなった。だからこの本は、ゲーテの「イタリア紀行」の写真付き副読本のように読むこともできるし、ゲーテの旅とは無関係に、イタリアの魅力を丁寧に解説したガイドブックとして読むこともできる。

時にはゲーテの泊まった宿に泊まり、時には埋もれたゲーテの足跡を発見し、読者の理解を助けるべく最低限の街の歴史に触れつつ、著者はゲーテの旅を案内してくれる。イタリア各地を足しげく歩き回っている著者の経験の豊富さと、イタリアのみならず当事のワイマール公国の様子や、そこでのゲーテの立場や苦悩、あるいは時代の文化的背景などに関する博識にもまた驚かされる。労作だと思った。

けれども残念なことに、ゲーテをイタリアへと突き動かした情動や、そこで魂が再生を果たしていく道筋は、伝わってこない。それは原作にあたるしかないことではある。そうではあるがだがもうひとつ、私には思い当たるふしがある。
人を旅に駆り立てる思い、旅によって人に刻まれるもの、それらはその地に住んでしまった人には遠くなるのではないか。中途半端にフィレンツェに6ヶ月暮らし、長い空白の後に再び旅人としてイタリアを訪れるようななった私には、そんなふうにも思えるのだ。

最後にもうひとつ、ゲーテとイタリアが結びつくときに浮かんでくるものを挙げておこう。
小学校6年生ごろのこと、毎月届くのを楽しみにしていた少年少女世界文学全集にこの詩があった。

君よ知るや南の国、レモンの花咲き… 
・・・・・
ミルテの花は静かに…

背後のストーリーも詩の細部も忘れているのに、「ミニヨン」というタイトルといくつかの言葉と共に、イタリアに対する焦がれるような作者の思いが、色鮮やかに、見知らぬかぐわしい匂いすら伴って、ずっと記憶にあった。イタリアに対する思いがあの幼いときに植え込まれたとは言わないが、それでもゲーテのあこがれや魂の再生の物語を、二百年の時を超えて分かち持てることの不思議と幸せは、記しておいてもいいだろう。

◆ゲーテ『イタリア紀行』を旅する(牧野宣彦/集英社新書 2008年2月)
 

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