「マイケルジャクソン 愛と哀しみの真実」を見終わっての最初の感慨は、
「ああ、ようやくこのことが、日本のマスコミの一番裾野の部分で、
しっかりと語られるときがきたんだ!」というものだった。
このこととは、93年と03年にマイケル・ジャクソンに降りかかった、「少年虐待疑惑」である。
まず番組は、彼を死に追いやった薬物依存とその過剰摂取は、
二度の告訴騒ぎによるストレスからであると伝える。
そして、03年の「疑惑」で逮捕・裁判とな り、マイケルが全面無罪を勝ち取るまでを追う中で、
二つの「疑惑」のいずれもが金を目当てにしたでっちあげであり、
マイケルこそが被害者であったことが明 かされる。
放送後にいくつか見たブログでは、ほぼ全ての人が、
彼の「疑惑」自体が誤りであったことに驚き、怒り、マイケルに大きな同情を寄せていた。
マ イケルにとって、もうひとつの大きなストレスはマスコミだったが、
もちろんこのことははっきりとは語られない。
だが、ブログでの感想を見る限り、マスコ ミの非はそれなりに視聴者に伝わっていると思った。
多くの人は、彼に対する否定的で偏ったマスコミ報道を無批判に受け入れた自分を、反省している。
だが、番組には、もっと強調されるべきなのにはっきりと語られず、
さらりと流されてしまったこともあった。
ひとつは、検察(もちろんマスコミも)の予断と偏見について。
93年に少年の実父エヴァン・チャンドラーが、マイケルから金をゆすり取ろうとした際、
マイケル側も彼を恐喝で告訴したことは語られた。
だが、検察がこの告訴よりマイケルの「疑惑」調査を優先させ、
その立証にやっきとなったのは何故か。
マイケルを10年間追いまわしたトム・スネドン検事の、
マイケル有罪にかける執念には触れていた。
だが、それは何故なのか。
二度目の告訴の原告、ギャビン少年が受けた事情聴取は、
警察の誘導尋問だったとナレーションが入る。
ではなぜ彼らは、それほどまでして、マイケルを有罪にしたかったのか。
なぜなら彼らにとって、マイケルは、最初から、疑いの余地なく、「有罪」だったのだ。
その、確信に満ちた予断のすさまじさ!
そこにはもちろん、
(私たち日本人にはなかなか想像出来ないレベルでの)黒人差別もあるだろうし、
よく言われる大衆の(有名人やスターが地に落ちることに喜びを感じる)嫉みや妬みもあるだろう。
もうひとつは、マイケルの専属医マーレー医師の責任について。
マイケルが薬物中毒であったのは確かだ。
だがマイケルは、心配する家族に中毒を否定し、彼らの忠告に耳を傾けなかったという。
中毒者は自分が中毒であること を認めない、とは広く言われていることだが、
果たしてマイケルは、ただずるずると中毒に陥り、その罠に落ちてしまった人間なのだろうか。
マイケルの最初の妻、リサ・マリー・プレスリーは、
マイケルが、自分もプレスリーのように死ぬのではないかと怖れていた、と語っている。
公にもマイケルは、93年の「疑惑」騒ぎの時に、鎮痛剤依存を明かした。
エリザベス・テーラーの助力により、治療施設に入院していたことも公表された。
マ イケルは薬物依存とその過剰摂取や摂取過誤の危険を、十分承知していたと思う。
承知した上で、それでも頼らざるを得なかった。
それが中毒というものだ、そ う言ってしまえばおしまいだが、
ではマイケルは医師を、ただ言いなりに処方箋を書く、
自分の欲しい薬をいくらでも手に入れてくれる都合のいい人間としてだけ、
雇っていたのだろうか。私にはそれだけとは思えない。
マイケルは何より、医師に薬物摂取のコントロールを期待していたのではないか。
即ち、ロンドン公演を成功させるために。
そのためにも、自分がプレスリーのように、薬の誤用で死んだりすることがないように。
番組では、伝えられている通り忠実に、
マーレー医師がベッドの上のマイケルに、心臓マッサージをしている映像が流された。
本来硬い床の上で行われなければいけないのが心臓マッサージだ。
医師がマイケルに投与した薬とその時間も紹介された。
これらのことから導き出される回答はただひとつ、医療過誤である。
医師は死に至る薬物を患者に与え、
もしかしたら救えたかもしれない命の蘇生に、失敗したのだ。
これら二点については、残念ながら、
「薬物に依存するしかなかった、繊細な魂の持ち主であるマイケルの悲劇」の強調によって、
その影にすっぽりと隠れてしまった。
そもそも悲劇は、マイケルが繊細だったから起きたのではない。
悲劇は、単に彼が、個人によって仕組まれた犯罪の標的となったから、起きたのではない。
ともあれ、これでようやく、ひとつの余計な障壁はクリアされた。
二つの告訴騒ぎがずっと疑惑として残ってしまった原因については、
(ここには非常に重大な問題が横たわっている)
今後も検証を続ける必要はあると思うが、
少なくともマイケルについてまっさきに耳を傾けるべきは「疑惑」ではない、
何よりも彼の楽曲であり、パフォーマンスなのだ、ということ。
ブログの感想に、マイケルの生前にこのような番組を放映してほしかった、
というものがかなりあった。
もしマスコミが、これらの「真実」をもっと早く放送してくれていれば、
彼は死ななくても済んだかもしれない、というものだ。
だがマスコミは、マイケルが生きているとき、この「真実」に放送する価値があると思わなかった。
その意味で、この番組を作らせたのは彼の死である。
だが、さらに大きな誘因は、まず彼が遺した素晴らしいリハーサル映像、
そして何より、マイケル・ジャクソンの作品群なのだと、私は思う。
彼の姿に、あらためてその死後に触れた人々の感動が、この番組を作らせた。
すなわち彼は自分の力で、まだ、自らの真の姿と思いを、伝え続けようとしているのだと。
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