海と月とトラベラー 6

posted in: 海と月とトラベラー | 0 | 2009/3/26

  

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    6
 

遅い朝食の席で、思い切って僕はルッカに二人だけで話しをしたいと告げた。

ルナとルーチェはアロママッサージを受けると言う。
僕たちは二人をマッサージコーナーまで送り届け、そのまま蓮池に向かった。
今日は風があるせいか、湿気が幾分ましに感じられる。
蓮池の水面に、時折小さなさざなみが起こる。

『ルーチェが先走ったことをしたとか…』 ソファーに腰をおろすなり、ルッカが口火を切った。
昨夜初めて知った己の危うさを思いながらも、僕はルッカの言葉に驚きを隠せなかった。
『あなたたちはそんなことも話し合うんですか?』
『ああ。たいていのことはね。
今回のことでは君にもルナにも申し訳なかったと言っている』

『いいえ、僕のほうこそ彼女に悪いことをしました』
『君の気持ちも分かるよ。混乱していただろうし…
ただあれは彼女なりに、君に良かれと思ってしたことなんだ。気にするなよ。
ルーチェは変った女で自分だけの基準を持っているから』

『彼女を愛している?』
『さあね。しかしそれがそんなに重要なことかね?』

『ルーチェは愛していると…』
『たぶん私も彼女を愛しているんだろう。ただこの歳になると、
愛って言葉の意味がよくわかならくてね。
使うことも、口にすることも簡単にはできないんだ』
『ルナのことは?』
『彼女のことは…』 ルッカが言いよどんだ。

『僕は愛しています。ルナも僕を、誰よりも愛していると…』
『そうだろうな。君たちがうらやましいよ。
自信に溢れ、疑いを持たず… 純粋で美しい…』

自分の言葉に嘘はなかった。
しかし、少なくとも今、僕は自信に溢れてはいないし、持っているのは疑いだけだ。
まして昨夜のルーチェとのことを話したあとで、純粋という言葉を聞くのは苦痛だった。

だが自己嫌悪より、膨らんだ疑問のほうがはるかに大きい。
『僕にはわからない』
『何が?』
『あなたとルナのことが』

『ジャン、わからないほうが幸せということもあるよ』
『わからないまま、あなたたちを見ていられない』
『見る必要などないんだ』
『あなたも、僕とルナのことにあなたは関係ないと言うのですか?
では、ルナと別れてください』

『ジャン… そしてどうするね? 彼女にプロポーズするか?』
『ええ。』
『彼女は君のプロポーズを受けると?』
『ええ』

ルッカはしばらく黙っていたが、重々しく口を開いた。
『ジャン、ルナが君のプロポーズを受けるとは思えない』
『なぜですか? 僕の職業のために?』
『そんなことじゃない。
彼女は結婚というものを知っているからさ。結婚で失われるものをね』
『失われるもの?』

『そうだ。それは結婚したものだけが知っていることだ』
『でも、愛し合う二人が結ばれるのに結婚という形は一番自然なことだ』
『はたしてそうだろうか? 君がもしルナを得たいと思うのなら、
そのことだけは考えてみる必要がある』

ルッカの言葉には引っ掛かったが、それについて考えるのは後にしよう。
なかなか見えない答えを求めて、僕は一番知りたい疑問を口にした。
『あなたはルナを一人で置き去りにしたくせに、なぜ彼女を解放しないんですか?』

『私がルナを束縛しているとでも?』
『違うんですか?それとも彼女のほうが?レストランやあの館のために?』
『ジャン… ルナがそんな女でないことは君だってよく知っているだろう?』
『ええ、知っています。だから余計わからない。何故なんです?』

『ジャン、君は本当にルナを愛し、彼女の全てを引き受けることができるかい?
彼女の望みに応え、彼女を生かすことができるかい?』

『そんなこと今更言うまでもない。
あなただって、なぜ僕が、ルナが僕をジャンと呼ぶままにさせているのか、
わかっているでしょう。
ルナは僕を思わずジャンと呼んだ… 
その名は、彼女の中に残るあなたの残像から出てきたものでしょう。
でも彼女は、その名を僕に与えた… 
彼女はジャンという名を僕に与えることで、あなたから抜け出ようとしているんだ。
僕にはそう思える。
それなら、僕はジャンとして彼女を愛し、彼女のためにどんなことでもするつもりだ』

『なるほど。君は確かにルナのための男らしい。
では教えてやろう。
僕とルナは、ずっと前から法律的にも夫婦ではないよ。
イタリアに帰ることを決めたとき、正式に離婚したんだ』

なんだって? 
… 彼はいまなんと言った?

『どういうことかわからない。 あなたたちはもう夫婦ではないと言うんですか?
しかしそうなら、なぜ… 』
疑問がいっそう肥大していく。

『これはルナが望んだことなんですか? 』
『そうだ。問題がなければ、ずっと夫婦ということにしておいて欲しいと。
僕はもう他の女と結婚するつもりはなかったし、
ルナのことはずっと見守っていたかったから…
だが実際のところ、彼女は個人的には僕となんの関係もないんだよ。
レストランは共同経営だし、あの館は母がルナに贈ったものだ。
母が死んだら正式にルナのものになる。
君たちが結婚することに、差しさわりのあることは一つもない』

わけが分からなかった。答えはさらに遠ざかっていく。
なぜルナが彼と夫婦のふりをしなければならないのか。いや夫婦のふりをしたいのか。

ホーチミンの館の近くの、壊れた檻に住むサルのことが思い出された。
いつでも出て行けるのに、自ら檻にとどまるサルが。

『ジャン、このことは言いたくなかった。
だが君には僕から話さなければならない。ルナは決して言わないだろうから』
『あなたはさっき、法律的にも、と言った。ということは…』

『そうだ、それが僕たちが別れた理由だ。
だが、僕がどれほどルナを愛していたか…
全てのことを斜めに見るようになったこの歳になってさえ、
彼女に捧げた激しい愛だけは、疑うことのできない真実だと思っている。
問題は、僕が彼女を愛しすぎてしまったことだ… 』

『愛しすぎた… 』

『そうだ。彼女に出会ったとき、僕は狂喜乱舞したよ。
僕は
ついにあこがれのベトナムで、永遠のミューズに出会ったんだ。
彼女といると、このベトナムの全てに、自分が開いていくような気分だった。
ルナはベトナムへの、アジアへの扉を開く鍵だった。いや扉そのものだった』

ルッカの言っていることはよく分かった。
ルナを通して感じられる世界の豊かさを、僕も知っていたから。
僕はだまって先をうながした。

『それから、彼女とのセックス…』 
いきなりルッカが口にした直接的な言葉に僕はぎくりとした。

『こんな話は聞きたくないだろうね』
『ええ、できれば』
でももう遅い。いやそのことが話の核心なのだ。聞かずにいることなど、できはしない。
『続けてください』

ルッカは、しばらく考えをめぐらすように沈黙し、やがて語りだした。
『彼女はどんな女とも違っている。
愛する男の前で、あれほど無防備に自分をさらけ出せる女を私は知らない。
そうだろう?』
『ええ』
『あの無防備さを、ほとんどの男は受け止め切れないんだ』
『あなたも?』

『いや。僕はあまりの至福に打ちのめされた。
彼女にとっても自分をしっかり受け止めてくれる男は初めてだった。
僕たちは運命の相手にめぐりあったと思ったよ。
しかしやがて僕の体はしだいに彼女に反応しなくなっていったんだ』
『どういう、ことですか…』

『結婚してイタリアへ連れて行った。
両親に引き合わせ、イタリア中を見せて歩いた。幸福だった。
あれが僕の人生のなかで、一番幸福なときだった。
しかしイタリアで、僕は彼女を抱くことができなくなっていった。

ベトナムとも違う、イタリアの乾いた官能の空気の中で、
花開くように潤いを増していくルナはあまりに魅惑的だった。
しかし彼女を抱けば抱くほど、果てたあとの悲しみが募っていくんだ。
一体になりたいとあまりに強く思いすぎて…
僕は、果てる前の、快楽に満ちた予感のときを引き伸ばそうとするようになり、
いつしか彼女から身を剥がして、恋焦がれながら崇めているしかできなくなっていた。

最初はイタリアが悪いのかもしれないと思ったよ。
ベトナムの湿った空気の中でなら、いつまでも尽きることのない、
欲望の永遠性を感じられるかもしれないと。
しかしそれはベトナムに帰ってあの館で暮らし始めても、変ることがなかった。

僕は彼女に何らかの方法で喜びを与えることはできた。
でも僕自身を与えることができなかった。
彼女がいくらやさしく僕を愛しても、指でも、口でも、彼女の肉体のどこでも、
僕は彼女を僕の欲望のための道具にすることができなかった』

『欲望のための道具…』
『そうだ。彼女を陵辱することができなかった…』
『陵辱…だって?』
『そうだ』
『それは違う… 奪い合うことは捧げあうことだ』

『ジャン… その通りだ。君の言う通りだよ。
だが僕には、その行為が自分の欲望のためだけに相手を陵辱するように思えたんだ』

昨夜のことが甦った。
ルナは僕の悲しみを黙って受け止めてくれた。
あれはお互いを捧げあう行為だったのか、
それとも己の欲望のために相手を陵辱する行為だったのか。
そして初めて知った、果てることの悲しみ…

ちょうどそのときホテルスタッフが通りかかったので、
彼を呼び止めようと僕は立ち上がった。
飲み物が欲しかった。
手を上げた僕の後姿に向かってルッカが言う。
『ジャン、君が心底うらやましい… 叶うことなら…』
まるで独り言のように小さなつぶやきが続く…
ささやかれた言葉に僕は驚き、同時に痛ましさを感じたが、
聞こえないふりをしてスタッフに声をかけ、ビールを頼んだ。

『とにかく、僕はルナと暮らしながら地獄のような苦しみを味わい、
唯一そこから脱却する道を選んだ。
二人で死のうとさえ思ったが、死んで二度とルナに会えないよりも、
別れて、遠くからでも彼女を眺めていられる道を選んだんだ』

『ルーチェは? たくさんの他の女たちはどうなんです?
彼女はあなたのいう“陵辱”してもかまわない女だと?』
『いや、ごく普通に思っているよ。
神聖でもないかわり、変に意識することもない』

ルッカのルナに対する崇拝は、理解できるような気がした。
だがルナはどうだったのだろう。
男に女神のように崇められて、ルナは幸せだったのだろうか?

それでも彼の愛が、いまだにルナを捉えて離さないように、僕には思えた。
彼女の魂は、ずっと肉体を超えたルッカの愛に包まれているのではないか。
それとも僕が思ったように、彼女はそこから抜け出そうとしているのか。
彼女にとって、僕は、なんなのか…
掴んだと思っていた答えが、また遠ざかっていく。

『もうひとつ聞かせてください。なぜルナは結婚を望まないと?』
『君も知っているだろう。彼女の孤独の深さを。
完璧な孤独をかかえているから、あれほど無防備に自分を捧げることができる。
あれほどに相手を受け入れることができる』
『ええ、それは知っています。
でも人は誰でも孤独だ。だから孤独を癒したくて結婚するんです』

『まあそうだが、彼女はその孤独を失いたくないんだよ。
結婚した途端、その孤独は形を変える。絶えず隣に誰かがいるのが当たり前になって、
孤独は見えにくくなり、それはなくなったかのような錯覚を与える。
そうなると、隠された孤独に向き合うことをしなくなり、
やがて二人は孤独すら共有できなくなっていく。
孤独だから魂が呼び合うということを忘れてしまう…
そうなると、君は君の愛してやまないルナを失うことになる、ということだよ。
ルナにはそのことがわかっているんだ』

『あなたたちは?』
『さっき言った理由で、僕たちは完璧に孤独のままだったよ。
だが、僕たちはそれを重ね合わせ、埋め合わせることができなかった。
それぞれの孤独と悲しみにあまりに捉われてしまっていて…』

言葉が途切れ、プールではしゃぐ子供たちの笑い声が、断続的に聞こえてきた。
届けられた苦いビールを、グラスから溢れ出る泡が喉にこぼれるのもかまわずに、
一気に飲み干す。

風は止んでいた。
池の水面は鏡のように輝き、
開いた蓮の花も、これから開こうとしている蕾も、大きく広がった白っぽい緑の葉も、
その間には青い空や雲までも、何もかもが水面に映りこんでいる。

それはまるで二つに分裂して
どちらが本物か分からない答えのように、
あるいは二重に映し出された、どちらも本物である現実のようにも、見えるのだった。

 

 

 

 

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