ラ・マスケラ -仮面- <第五章> v

posted in: ラ・マスケラ -仮面- | 0 | 2009/3/25

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<第五章>  ”ラストシーン 

 

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たちまちジンは女たちに取り囲まれた。
いつものように結婚の可能性や、競演女優とロマンスはなかったか、
などが立て続けに訊ねられる。

一人の女は、ずっと独身でいて欲しい、
あなたは私たちの永遠の恋人なのだから、と言う。

だがそのすぐあとに、でも素敵な人とめぐり合って、
暖かな家庭を築いて欲しいとも言う。
パク・ナムジンに幸せになって欲しいのだと。

ジンは、そう思ってくれる人がいるだけで、僕はとても幸せですと答える。
そしてそっと、ナミを窺う。

ナミはずっとディーと話しこんでいる。
ディーの周りにはあまり人が寄り付かないので、
二人はワインのグラスを片手に、
周囲の喧騒から切り離されたように、見つめあい、話している。

『あまり話すことがないの……』
と悲しげに電話でつぶやいたナミは、どこにもいない。
『彼女も僕に会わないさ』 と苦しそうに答えたディーも。

マリー・チャンがディーのパートナーとして出席するものと誰もが思っていたが、
会場に彼女の姿はない。
台湾での撮影の合間を縫ってかけつけるはずだったのだが、
どうしても都合がつかなかったと、直前にディーから聞かされた。
だがディーはそのことをさして残念がるふうでもない。

ジンは揺れる気持ちを抱えたまま、ナミとディーを見ている。
そして思う。相手がディーだったら、僕は潔く引き下がるだろうかと。
答えは問うまでもないのだが。

芸能プロダクションの社長婦人に、
ユキさんの魅力はどんなところですかと訊ねられ、ユキに視線を向ける。
今ユキはリュウと談笑していた。
リュウがユキを見つめる眼差しの熱さを、ジンは知っている。

「純粋なところです。とても一途ですがその一途さが澄んでいる。
澄みわたった水のように、彼女の望みや思いが透けて見える。
それらを相手にすっかり曝け出し、まっすぐに立つ凛々しさ……」

何度も重ねたユキの唇が、
ジンを求めて震え、欲望に喘いだユキの唇が、自信に溢れて笑っている。

「個人的なおつきあいも、されているとか……」

ジンの腕のなかでミーナとなったユキは、濃密な愛撫に恍惚の表情を浮かべ、
男を受け入れた歓喜をはじけんばかりに演じた。

いやあれは、演技ではなかった。
その一瞬に燃え上がり、白い満ち足りた灰となるほどに、
ユキはその時間を生きた。それはディーとなったジンも同じだった。

「やっぱり……」 ジンが黙っているので、同意したと取られたようだ。

「いいえ。彼女は今ブレークしつつある。
僕など相手にしている暇はないでしょう」

それは本当だった。
さきほどの制作会社だけでなく、撮影終了直後のヴェネツィアに、
日本からも韓国からも、何社かがダイレクトに連絡を取ってきたという。

輝きを増したユキを、ジンはまぶしく見る。
あのとき心に誓った役割を自分が果たせたことが、誇らしくもあった。
一人の男と女の真実を映像に閉じ込めることができた、
最高に美しいディーとミーナの瞬間を切り取れたと、思ってもいる。

それで満足なのに、かすかに胸がうずく……。
もし望めば、今も迷わずにユキは自分の元にやってくるだろうか?
確信は、もうジンにはない。

「次の作品の予定は?」
記者会見でははっきりと答えなかった問いだが、
質問したのが昔からの知人だったので、気軽に思いをめぐらせて見る。

「そうですね……」

ジンの脳裏に、トルチェッロ島のロカンダ・チプリアーニで、
ナミに語った物語が浮かぶ。

なだらかにカーブする砂の丘、
西の端に移ろう月の光が柔らかな影を落とす窪み、
その映像にナミのからだの曲線が重なる……。
ジンはあわてて、とっさに別のことを口にしてしまう。

「ナミ・シマムラの『ヴァカンス イン アイランド』か、
それともルイジ・ダンドロの『水の女たち』か。
いやこの二作品は互いに補完関係にあるから、二部作としなければならいな」

なんの考えもなく、いや苦し紛れにひねり出したアイデアだったのに、
口にしたとたん本当に自分がそれを望んでいたような気になる。

「それから…… カサノヴァの物語も」

「カサノヴァ?」
どうジンの連想を追っていいのかわからないと、知人は戸惑っている。
だがジンはかまわずに、
次々に湧き上がる思いに身をゆだねるように言葉をつなげていく。

「そう、現代のカサノヴァです。モデルはルイジ・ダンドロ。
彼の欲望、焦燥、苦悩…… まさしく彼はカサノヴァに違いない。
そして牢番の娘は……」

知人はめずらしくパク・ナムジンが酔ったかと、
ジンの言葉を笑いながら聞き流している。

「その前にしばらく休暇をとりたいと思っています」 ジンは誰に言うともなく続ける。
「ダンドロ氏のカプリの館に招かれているので、
そこでしばらく過ごしたあと……、
そう、カプリからアフリカは、カプリからヴェネツィアまでと同じくらいだ、
僕はアフリカに渡ります」

「ディー」 ナミはディーを口説いていた。
「お願いがあるの」 じっとディーを見つめる。

「次の作品も、ジンに撮らせて欲しいのよ」
ディーはさりげなくナミの視線をはずし、
「なにか具体的なものがあるのか?」 と訊ねる。

「ええ、舞台はアフリカなの」
「むしろ、今回の君とルイジのスキャンダルを利用したほうがよくはないか?」
視線をあわせぬまま、続ける。

「あなた、意外とクールなのね」
「映画はビジネスでもある」 ディーは冷静を装った声で答える。
「ならあなたはどう考えているの?」

「君の『ヴァカンス イン アイランド』をまず撮る。
その出来と反応で、次は『水の女たち』だ」
「それも面白そうだけど……」

「だけど?」
「そんなのはいつでも撮れる」 と言うと、
ナミは何かを思い出すようにうっすらと目を閉じる。

「今、私の中にすごい物語が生まれそうなの」

「それをすぐに映画にしろと?」
「ええ、ジンからインスピレーションを貰ったの。
この感覚、わかってちょうだい。今砂漠は雨季なの。

オアシスは緑に覆われている。泉に水は満ちている。
でも時を逃せば、オアシスそのものが消えてしまうかもしれない。
私が書き、彼が撮るまでに雨季が終ってほしくない。
私、明日にでもアフリカに飛びたいわ。お願い、取材費を出してちょうだい」

あきれたような、あきらめたような目で、ディーはナミを見る。
「その前に契約だろう?」

「契約?」 ディーの言葉に水をさされたように、ナミは目を開く。

「君には優秀なエージェントが必要だよ」
「まあ、ディーったら……」  ナミが笑い声をあげる。

ジンがその声を聞きつけて振り向く。
ディーに笑いかけているナミを少しだけ見つめる。
そして左手の小指のリングを、右手の親指と人差し指で回す。
ヴェネツィアで求めたものだ。

それを見ていた傍らの女が、
「以前のものと違いますね」 と言った。
「ええ…… ときどき変えて楽しんでいます……」

「前のは飽きてしまわれたんですか?」
「いや、そういうわけでは……」 ジンはリングをはずしてしまう。
「たまには何もしないのもいいし…… まあ、そういうことです」
どういうことなのかと、女はぽかんとした表情をしている。

失礼!と、ジンは人の輪からはずれ、足早に部屋を出る。
ここがヴェネツィアの館だったら、運河を望むバルコニーに逃れ、
風に当たりたいところだった。

通路のはずれの非常口の扉をあけ、階段に腰をおろす。
殺風景なリノリュウムが張られた白い壁を見つめる。
その壁にダンドロの館の中庭が映し出される。

ラストシーンの撮影が終ったところだ。

OK! というリュウの声に、黒尽くめの衣装のジンが仮面をはずすと、
誰からともなく拍手が湧き起こった。
それからジンは、近づいてきた者たちと抱擁を交わす。
ユキと、リュウと、フランコと、エリーと、ナミと。

引きで撮っていたカメラに映りこまないようにと、
二階や三階の階段の上から見守っていたスタッフも、皆降りてくる。
その全員と握手を交わす。

誰かが終ったぞーと、陽気な声をあげる。
その声が泣いているように聞こえる。

この瞬間が、ジンは嫌いだった。
見ていた夢を突然破られたようで、どんな顔をすればいいのかがわからない。
張り詰めていた糸が切れそうになっている。
自分はもうすぐ風に飛ばされる風船になると思う。

だが監督であるジンは、風船になるわけにはいかない。
機材の片付けの指示を出す。
本格的な打ち上げは帰国後に行うことにして、皆の労をねぎらい、
今夜はゆっくり休んでくれと挨拶をする。もう一度拍手が起こる。

中心メンバーはなんとなく固まったまま、
ごく自然に『ダ・マウロ』に寄ろうと話がまとまる。

『ダ・マウロ』では、皆はしゃいでいた。
誰もが本当は寂しくてたまらないのに。
だがそれは言葉に出してはいけない。
ユキまでもがおどけて笑いの種を振りまいている。

明日の撮影のために酒を控えることもないから、ピッチも早い。
皆笑いの仮面の上に、満足と放心と寂寥を曝している。

ひとしきり飲んだあと、ホテルに戻る。

ヴェネツィアもあと一日を残すばかりだ。
明日は朝から荷造りにかかる。そしてあさってには、帰国する。

機材もスティール撮影の比ではない。別送にするものは手続きも煩雑だ。
ジンの仕事はほとんどないとは言え、
すべてをスタッフに任せて遊んでいるわけにもいかない。
ナミとゆっくり話す時間も、もうないかもしれない。

わかっていたことなのに、
突然その事実を突きつけられたように、ジンはうろたえた。

こんなはずではなかった。
たっぷりと、自分たちには時間があったはずだ。
その時間はどこに消えてしまったのか。

自室のベッドにどさりと腰をおろす。

最後に僕に与えられたのは、
フランコに肩を抱かれて帰って行く、
きゃしゃなナミの後姿だけなのか……。

ふらりと立ち上がり、リビングに出る。
リュウの寝室を覗くと、彼はすでにベッドに大の字になって眠っていた。
そのまま部屋を出て、ホテルのバーに向かう。

運河を望む席に着く。
遅い時間にもかかわらず、ヴァポレットの灯が運河を流れていく。
いつか見たように。

教会も同じようにライトアップされている。
なのに隣にナミはいない。
肩に凭れてきたナミの頭の重さを思い出すように、目を閉じる……。

テーブルにグラッパのグラスが置かれる音がした。
それからナミが凭れていた肩に、ギャルソンの手が触れた。
ジンが眠っているのではと、思ったのだろう。

だがそれは、ギャルソンではなかった。

ジンは目を開き、窓ガラスに映ったナミを見る。
「迎えにきたの」 ナミが言った。

ナミに手を引かれて、深夜の、人通りのない小路を行く。
館の扉をくぐり、階段を登り、寝室に入る。

服を脱ぐと、ナミが手の中に握りしめていたリングを、ジンの指に嵌めた。
トルチェッロ島のチプリアーニで一緒に迎えた朝、
またナミに預けていたのだ。

「これ、返すわね……」

そのままからだを重ねる。
ジンはひと言もしゃべらない。
窓の色が明るいブルーに変わるまで、何度も、抱き合う。

眠ったように見えるナミの耳元で、ジンはようやく言葉を発する。
「あのときも、僕は何もしゃべらなかった」

ピクリと、ナミのからだが反応した。
目を開き、そして人差し指をジンの唇に当てる。
「だめ、言わないで」

ジンは頭を枕に落とす。やはり、知っていたのか……。

小さく、ナミが笑う。
「そのほうが、秘密の、素敵な物語になるじゃない」
そう言って、ジンの胸に頬を寄せる。

「物語なら、いくつだってあげるのに。毎晩違う物語を。
百億の昼のあとは千億の夜に、
僕はあなたに新たな物語を語り続ける……」

ナミは微笑みを浮かべたまま、目を閉じる。
眠ったように見える。

そのあとをジンは独り言のように囁く。
「僕は遠い国からやってきた旅人になって、あなたを抱く。
あなたに、名も知らぬ未知の男との一夜限りの情事を演出しよう。
あなたを、いつも初めてのやりかたで、愛してもみせる。

どうです……。
俳優兼映画監督の恋人がいれば、一生楽しめますよ……」

僕にもあなたの物語をくださいと、ジンはいつか言うつもりでいる。
そして、別の物語を求めて船出する先は、言葉の海だけにしてくださいと。

ジンはそっとベッドから滑り出る。
その手を、ナミが捉える。
小指のリングをまさぐり、それを唇に押し当て、安心したように、手を離す。

ジンは自分の指からリングをはずすと、力なくたれているナミの手をとる。
どの指にも、リングははめられていない。
毛布の下の左手も同じだ。

ずっと、そうだった。
“世界で一番小さな牢獄”は、ナミには似合わない。

そう思いながらも、ジンはナミの薬指にそのリングを嵌めてみる。
ゆるゆるとリングは抜けてしまう。
仕方なくそれをサイドテーブルに、そっと置く。
そして服を着て、部屋を出る。

 

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