ラ・マスケラ -仮面- <第四章> iii

posted in: ラ・マスケラ -仮面- | 0 | 2009/3/25

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<第四章> ”悪魔の橋 

 

      iii

ヴァポレットの乗客は全員トルチェッロで降りた。
その全てが、島を縦に貫く一本の運河に沿った道を、
島の外れのビザンチン様式の大聖堂をめざして歩き出す。

トルチェッロはヴェネツィアのラグーンの中で一番最初に人が住み始めた島だ。
7世紀には聖堂が建てられ、
10世紀には数万人にもおよぶ人口を要していた。

だがその後ヴェネツィアの中心が本島に移り、衰退が進む。
とどめを刺したのは17世紀に襲ったマラリアだった。
病魔を恐れ、人々が逃げ出してしまった島に、
往時の賑わいが戻ることは二度となかった。

今ではヴェネツィア発祥の地として、
モザイクの美しい聖堂を訪れる観光客の他は、
わずかに60人ほどの人が住むばかりだという。

道の左手にも、運河を挟んだ右手にも、
草が生い茂る寂しげな空き地が広がっている。

大勢いた観光客は足早に聖堂を目指して歩み去ってしまい、
写真を撮るために立ち止まっている三人の周りには、
いつのまにか誰もいなくなっていた。

ディーとミーナは運河にそった道を歩いている。
ディーは厳しい表情で、まっすぐ前を見て。
ミーナは少しうつむきかげんに。

二人の間には少しづつ距離が開いていく。
ディーはずんずん先に行ってしまい、ミーナはそれを追おうとはしないからだ。

ミーナは一人立ち止まり、あたりを見回してみる。
今にも泣き出しそうな空、運河の暗い水、
枯れた草が色を奪った空き地……

取り残された悔しさと、
自分の胸のうちを理解しようとしないディーに対する怒りとで、
ミーナはそれ以上歩を進める事ができない。
ディーは振り向きもせずに遠ざかっていく。

ミーナはくるりと踵を返し、今来た道を船着場を目指して戻り始める。
しばらく大またで早足に歩く。

ふと歩みを止め、バッグから航空券を取り出し、しばらく見入る。
大きくため息をつき、航空券をバッグにしまう。
再び、ミーナはディーの後を追ってとぼとぼと歩き出す。

左手に時々現れるわずかなバールやレストランを過ぎる。
その先に、運河にかかるただひとつの橋があった。

その石の橋はのっぺりとした奇妙な形をしている。
手すりがないのだ。
人々が眠っている間に悪魔が一夜で架けたという伝説を持つ、『悪魔の橋』だ。

橋の真ん中にディーがいた。
橋に腰を下ろし、足を空中でぶらつかせている。
ミーナもディーの元に行こうと橋に足をかける。

橋に手すりがないのがこれほどに心もとないのかと、ミーナはおののく。
少しでもバランスを失えば、そのまま運河に落ちてしまいそうだ。
ディーがミーナを迎えようと立ち上がった。

ミーナは顔を上げ、ディーだけを見て、まっすぐに進む。
怖がっている様子は少しもない。
橋の真ん中で、ディーがミーナを抱きとめる。

橋に並んで腰を下ろし、同じように足をぶらつかせながら、ミーナが言う。
「あなた、私がルイジの前で裸でポーズを取るのがいやなんでしょう?」
怒りは去っていた。だがその口調にはまだ強張ったものがある。

「僕が本当に耐えられないのはそんなことじゃない」
ディーが思いのほか静かに語り始めたので、
ミーナも素直にその言葉を聞く気持ちにる。

「僕が嫉妬するのは、仮面だ」
「仮面?」
「そうだ、君とルイジを強く結び付ける、仮面にだ。
仮面さえなければ、君たちの接点はない。
仮面さえなければ、ルイジは君を必要とはしない」

そうなのだろうかと、しばらくミーナは考えている。やがて、
「確かに仮面の事がなければ、私、あなたとすぐにでも出発できるわ……」
としぶしぶと認める。

「ルイジが仮面と僕の撮った写真を、暖炉で焼いただろう?
その場面がよく浮かんで来るんだ。そして想像する。
ルイジの作る仮面を、次から次へと暖炉に投げ入れて、
焼いている自分をね」

沈痛な表情で、ミーナはその言葉を聞く。
そしてディーの広い肩に両腕を回し、抱き寄せる。
ディーも腕をミーナの背中に沿わせ、強く抱きしめる。

ディーの肩に頭を預け、耳元でミーナが言う。
「だめよ、ディー、そんなことしちゃ。
そんなことしたら、ルイジは死んじゃうわ」
「それでルイジを殺せるなら、僕はするかもしれないな……」

大きく息を飲み、ミーナはからだを離す。
黙って首を、何度も横に振る。

「ばかだな。そんなことするわけないだろう……」
ディーはもう一度、ミーナを抱き寄せる。
だがミーナの表情に浮かんだおびえは、消えていかない。

「ミーナ……」 また静かにディーが語り始める。

「君は今、手すりの無い橋に足をかけている。
橋の真ん中には僕がいる。 僕に向かって進んできてくれ。

振り返らず、橋の下も見ずに……
もし途中で後ろを振り返ったり、右や左の淀んだ水に気をとられたりしたら、
たちまちバランスを失って運河に落ちてしまう。
だからさっきのように、まっすぐ僕だけを見て、僕のところに来てくれ……」

選択を、ディーは迫っている。答えるしかなかった。
「わかったわ。あなたと、行くわ……」

強く、ディーがミーナを抱きしめる。
だがミーナはつとからだを離し、不安な表情でディーの顔を見る。

「ルイジになんて言えばいいのかしら……」
「何も言わなくていい。黙っているんだ」
「でも……」

「言ってどうなる? こじれるだけだ。<
br />こっそり荷物をまとめておいてくれ。
朝早く館を出れば、気づかれることはない。水上タクシーで迎えに行くよ」

「もし気づかれたら? そしたら彼はきっと追ってくるわ。
彼のボートは水上タクシーより早いのよ」

「大丈夫だよ。
そんなことは、出来っこないさ……」

ディーの瞳は、光を吸い込んだ運河の水と同じ色をしている。

ディーは窓の前に立ち、ガラス越しにロカンダ・チプリアーニの庭を見ている。
背後にはバスルームからシャワーの音が漏れ出ている。

庭の木立の向こうには、聖堂の塔が見える。
まだ昼なのに、空は夕方のように陰り、時々遠くに雷の音が聞こえている。
ディーには、庭も、塔も眼に入らず、雷も耳に入らないかのようだ。
虚ろな視線をさまよわせたまま、何かを考えている。

ベッドで、激しく抱き合う二人。雷鳴が窓に襲いかかる。

雨が、降り始める……。

ジンは『悪魔の橋』を何枚も写真に撮った。
それから橋の真ん中まで、ユキと進んでみる。
腰掛けて足をぶらつかせる二人を、ナミがカメラに納めた。

聖堂の金色に輝くモザイク画を眺めてから、
三人はロカンダ・チプリアーニの、庭を望むレストランに腰を落ち着けた。

前菜はラディッキオというほろ苦い野菜だった。
紫キャベツのような色をしている。
新鮮なオリーブオイルであえたサラダと、濃厚なチーズをかけたオーブン焼きが、
同じ野菜なのにまったく違う味わいで、そのどちらもが美味だった。

プリモは魚介類のリゾット。
えびやイカや貝が、小さく刻まれて米にまざっている。
その米にはしっかりと、海の風味が染み込んでいた。

セコンドはシャコのグリルだ。
数種類の野菜を煮込んだソースがかけられ、
ヴェネツィア風のポレンタ(とうもろこしの粉を練ったもの)が添えられていた。

“美味しいお昼”の効果は絶大だった。
料理をたいらげるうちに、ナミの顔に生気が戻ってきた。
プロセッコのためもあるかもしれない。

チプリアーニ名物の特製のミルフィーユを食べ終わるころ、
ナミがシナリオについてジンに訊ねた。
「この島でのイメージは固まったかしら?
どうやら『悪魔の橋』が効果的に使われそうね」

「ええ、名前もいいし、手すりのない危うい感じもいい。
あの橋を使わない手はないでしょう」
「どう使うんですか?」 ユキが尋ねる。

ジンは頭の中で組み立てていた、ディーとミーナのシーンを語る。

「なんだか、恐ろしい予感を孕んだ展開ですね。
原作では二人で出発の打合せをしたり、
久しぶりに愛を確かめ合ったりする素敵なシーンだったのに……」

ナミは目を閉じ、腕を組んで考え込んでいる。
ゆっくりとコーヒーを飲みながら、なおも黙って考えに沈んでいる。

ジンは待った。
もし現実のディーとミーナに、ジンの想像のような会話があったとしたら、
ナミはこのシーンを許さないだろう。

「いいわ……」 ナミがようやく言った。
ユキの顔が明るく輝く。

「緊張感があってとってもいい。ここ、最後のヤマになるわね」
その言葉がジンを喜ばせる。
褒められたからではない。
現実がジンの想像と違う事が確かめられて、うれしかったのだ。

「ええ、ディーには申し訳ないが、ここで彼がルイジに殺意を抱けば、
ミーナがヴェネツィアに残る理由がすんなりと描ける」

「ルイジの事故がどういう理由であっても、
ミーナはディーの関与を疑い、彼をかばおうとするわけね」 ナミが続けた。

「きっと、自分に大きな責任があるって思うわ。
なんだかスリリングで、今まで出たどんな映画とも違う。
私、こんな映画に出られて光栄です」 ユキも言う。

「ユキさん、そのセリフは映画が完成してからにしてください」
ジンの言葉に、ユキも、ナミも笑った。

その笑いのただ中に、ふと思いだしたようにユキがその言葉を発した。
「ナミさんがシナリオを引き受けてくれてよかったですね」
「そうね、私だけ美味しいお昼を食べ損ねることところだったわ」
「あら、三人ともですよ」

「三人とも?」 ナミが不思議そうにユキを見た。
会話の流れを、もうジンは止める事が出来ない。

「そうですよ、だってナミさんがシナリオを断ったら、
映画は作れなかったんだもの……」

ナミがユキの言葉を、味わうようにゆっくりと咀嚼しているのがわかった。
ジンは胸にナイフをつきたてられたような痛みを覚える。
ユキが一瞬のうちに変化した二人の様子を不思議そうに眺めている。

「お二人とも、どうかしましたか?」
ナミが、沈んだ声で口を開いた。
「私がシナリオを引き受けなかったら、映画は撮れないのだと、
ユキ、あなたそう言った?」

「ええ、そしたらプロデューサーは映画化をあきらめるって、ジンさんが……」
ユキの言葉を最後まで聞かずに、ナミが立ち上がった。
そのままドアに向かう。

「ナミさん、待ってください」

だがナミは、ジンの言葉を無視してドアから出てしまう。
ギャルソンがコートを持ってきた。
ジンがそのコートを受け取り、ナミを追う。

「待ってください。僕の話を、聞いてください」
ナミはジンの手からコートを引ったくり、腕を通す。
わけがわからずにいるユキが、ナミのバッグを差し出す。

「ありがとう。私、ちょっと頭の中を整理したいから、先に帰るわね」
ナミはバッグを受け取り、ユキに向かって言う。
ジンの顔を見ることはなく、足早に歩いていく。
その後姿をジンは見送るしかなかった。

「ナミさん、どうしちゃったんですか?」
「僕が悪いんです。説明は、あとでゆっくりと……」

ジンはとにかくナミを追うつもりだった。
だがまだチプリアーニの部屋を見ていない。
昼食の支払いを済ませながら、レセプションに、
すぐに戻ってくるが頼んでいた部屋にできれば今夜一泊したいと告げる。
幸い部屋は空いていた。

船着場のベンチには何人か観光客が座っていたが、
そこにナミの姿はなかった。
ナミは少し離れた風の吹きつける岸辺で、
ラグーンを渡って近づいてくるヴァポレットを見つめている。
ジンはその後ろに立った。

「ナミさん…&he
llip;」
ジンを硬く拒否する背中に、静かに、言葉をかける。

「あなたをだまそうと思ったわけではない。
本当に、もしあなたがシナリオを断っても、僕は映画を作るつもりでした。
ディーをなんとしても説得するつもりだったんです。
どうしても僕は、あなたの映画を撮りたかった……」

ナミは振り向きもせず、答えもしない。
「ユキさんと、帰ってください。
僕はチプリアーニの部屋を見てから戻ります」

ジンはナミの返事を待たず、
傍らで見守っていたユキに、あとを頼むとささやくと、
運河に沿った道を再びチプリアーニに向かって歩き出した。

 

 

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