ラ・マスケラ -仮面- <第三章> iii

posted in: ラ・マスケラ -仮面- | 0 | 2009/3/24

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<第三章> ”ヴィーナスの仮面 

 

      iii

ホテルのレセプションで、いつものキーと別のルームキーと二つ渡され、
ジンは今夜、カメラマンとスタッフが到着する予定だったことを思い出した。
映画のポスター撮りのためだ。

オンデが押さえてくれてあったスイートに荷物を移し終わった頃、彼らが到着した。
カメラマンは、ジンの前作『メトロ』でも一緒に仕事をしたキム・リュウだ。
確かなカメラワークと、ストーリーの理解力には定評があり、
スティール撮影もこなす。

彼はデビュー当時のジンに的確な助言を与えてくれ、
それ以来ジンも深い信頼を寄せてきたカメラマンでもあった。
今回は助手を二人連れてきている。

最初はスタイリストも呼ぶつもりでいたのだが、
ナミがエリーにやらせてくれというので、まかせることにした。
メークだけは最近ジンの専属となったソニンを呼んだが、
その他の撮影に関する全てのコーディネートは、もちろんオンデだ。

ディーからメールが届いていた。
ユキの出演した他の映画も見た、ヒロインの候補の中では彼女が一番だ、
我々は最良の選択をしたようだ、とまず書かれていた。

それからシナリオの進み具合を尋ねたあと、写真についての指示があった。
ポスター用だけでなく、ある程度ストーリーを追った、
重要な場面での写真もほしい、それを持ってプレセールに動きたい、
なるべく事前に資金を集めておけば、君も金の心配をしないで撮れるだろうと。

実際の撮影スケジュールはまだ立っていない。
だが着実に、映画が動いている。
ジンはいつにも増して、からだの奥底に湧きあがるものを意識した。
それはまだ形になっていない、混沌とした、けれども熱いエネルギーの渦だ。

ディーのメールに追伸として一行が付け加えられていた。
フランコ・オルシーニが誰か、思い出したよ。
確か彼はルイジ・ダンドロの秘書だ。

ディーとミーナの出発間際に、空港に電話をかけてきたというダンドロの秘書、
ミーナの物語の中では名前すら与えられず、
ほんの一瞬顔を出したに過ぎない男、
なのに最後にはミーナと結ばれた男、それがフランコだった。

だがそうとわかっても、ジンは少しも驚かなかった。
フランコこそ物語の要にいる男ではないかと、どこかで感じていたからだ。

となると、いつかフランコが語った、
彼とナミが共同戦線を張ったというその目的は、ルイジ・ダンドロか……。

翌朝はリュウと一緒にサン・マルコ近辺の撮影ポイントを下見する。
ヴェネツィアがもう一人の主役なのだから、場所の選択は重要だ。

午後にはユキも合流した。
衣装が届けられ、ホテルで合わせてみる。
エリーのセンスはなかなかよかった。

まず夕闇のせまる路地でディーとミーナを撮る。
そのあとサン・マルコを背景に、
仮面をつけ、仮装した姿で撮影すると、その日は終った。
皆で食事をすませ、ユキをヴァポレットの船着場まで送る。

ホテルに戻ろうかどうしようかと迷ったあと、ジンはナミの携帯に電話をかけた。
「ジン? どうだった? 撮影、順調だった?」
ナミはまるで、ジンの電話を待っていたようかのように訊ねてくる。

「エリーさん、優秀なスタイリストですね。
ぴったりの衣装を用意してくれて、なかなかいい写真が取れましたよ」

「そうでしょう!
この映画には、ヴェネツィアをよく知ったスタイリストじゃなきゃね」

ナミはスタッフが褒められたのがよほど嬉しいらしい。
エリーが気に入られるかどうか、その事を心配していたのだろう。

「ナミさんはどうですか? シナリオ、進んでいますか?」
「もちろんよ。ディーとミーナが、どんどん互いにのめりこんでいってるわ」
「まだこれからも書くんですか?」

「ううん、今夜はもう書かない。
二人の愛があまりに深まってしまって、私、すこし……」

ジンは書斎でキーボードを打つナミの姿を思い浮かべた。
ナミはしばらくキーをたたき続けたあと、一休みしようとリビングに入る。
するとテレビの前のソファーにディーとミーナがいる。
あの館の、いたるところにディーとミーナがいるのだ。

「今、どこに?」
「ダ・マウロっていうバーよ」

そう聞いて、ジンは少し息苦しい。
あのバーとナミが結びつくと、それとセットになったように、
ナミの愛人の姿も浮かんでしまう。

「あなたは?」
「ユキさんをリアルトの船着場まで送ったところです」

「リアルト? だったらすぐ近くじゃない。
ね、あなたも来ない?
一杯付き合ってくれたら嬉しいわ」

「一人、なんですか?」
「ええ、そう。なんだか一人で飲みたかったの。でも……」
ナミが言いよどんだ。

「僕に会いたくなったって、素直に言ったらどうです?」
冗談めかしたジンの言葉に、ナミが笑った。

ダ・マウロにいると聞いたときから、ジンの足はそのバーに向かっていたから、
ナミの笑い声を聞いているうちに、もうバーの前に着いてしまった。

ドアをあけ、カウンターに座るナミをそっとうかがう。
ナミはジンが入ってきたのに、気づいていない。

「ええ、そうよ。なんだか会いたくなっちゃった……」

そう言うナミの姿と声を、
そのまま撮影し、録音しておきたいと思う。
ずっと、ナミに気づかれずに彼女の顔を見ながら、話していたいと思う。

だがそのとき、ナミがジンに気づいた。
大きな微笑がナミの顔に浮かぶ。
ジンの顔にも笑顔が広がっていく。

ギャルソンが、ナミの前にあるのと同じシャンパングラスをジンの前に置き、
ゆっくりとあわ立つ液体を注いだ。

「何かいいことでもあったんですか?」
「そうじゃないの。
一人で赤のボトルを空ける気はしないし、
プロセッコ(ヴェネト州の発砲白ワイン)はドライで何にでもあうでしょう?
気軽に飲むのにちょうどいいのよ」

「じゃ乾杯しましょう」
「そうね、何に乾杯する?」
「ミーナに……」

「ミーナ?」
「そう、僕たちのミーナに」 ふふっと、ナミが笑う。
「そして私たちのディーに」 ジンも笑ってグラスを合わせる。

ジンは明日のポスター撮りについて話し、
ナミはディーとミーナが、互いにのめり込んでいく様を話す。

「ルイジは、それに気づかない?」
「もちろん気づいてるわ」
「嫉妬しないのかな?」

「ねえ、ジン。
ミーナのヌードをデッサンしてできた仮面って、どういうものだと思う?」
「きっと、すごく官能的なんだろうな」

「そうよ、その仮面をつけたミーナは、もうヴィーナスみたいになるの。
ずっとルイジは、ミーナがヴィーナスに見えるような仮面を作りたかった……」
「それで?」

先を促すジンを制するように、
ナミはグラスの底から立ち上がる泡にしばし見入った。
それから香りを楽しむように金色の液体を口に含み、
ゆっくりとそれを飲み干すと、言った。

「あなたが書いた舞踏会のシーンで、
セリフをひとつ直さなきゃならないわね……」
「直す?」

「ええ、そのドレス、よく似合っているよ、じゃなくて、
その仮面、よく似合っているよ、にしなきゃ」
「ああ……。じゃあのシーンでミーナがつけている仮面は……」
「そう、完成したヴィーナスの仮面」

ヴィーナスの仮面か……。

ジンは舞踏会のシーンを頭に思い描く。
ユキの透明感のあるイメージが、仮面をつけたとたんに変わる。

仮面は顔や名前や属性を隠すが、
それらを隠すことによって逆にその人間の素の部分が顕になる。

さらにその特別な仮面は、ユキの素のイメージはそのまま残しながら、
肉体の奥に眠っていた官能性を引き出すのだ。

「すごくいいけど…… でも演ずるのは大変だ」
「そんなの知ったこっちゃないわ」 ナミがまた笑った。

「仮面をつけたミーナに、ディーは強烈に惹かれていく……
とすると、二人が出会った最初の日、
小路ではぐれそうになって人の群れの中に互いを見つけ出すシーンは、
少し押さえたほうがいいかな?」

「そうね、舞踏会を強調したほうが仮面は生きるわね。
でも二人が愛し合うのは、けっして仮面だけのせいではないのよ。
そのことはしっかり示唆しておくべきだわ」
「というと?」

ナミがグラスを置き、ジンに向き直った。
「さっきの、ルイジの嫉妬のことよ。
最初ルイジは、ディーがミーナを愛するようになるのは、
ヴィーナスの仮面のせいだと思うのね。
それだけ自分の仮面が力を持っているのだと、そのできばえに満足すらするのよ」

「ディーの愛は真実のものではないと?」
「そう、仮面をはずしてしまえばその魔力も解ける、
すぐに別れるはずだと思い込んでいるの。でもそれは違った。
二人は別れるどころか、どんどん愛を深めていく……
ついにルイジは自分の間違いに気づくのよ」

映画が、原作の枠を超えて大きく展開しようとしている、
ミーナの書いた物語を、はるかに超えていこうとしている…… ジンの胸は躍った。
「その先は?」

ナミは、凝った肩をほぐすように首をまわした。
「まだよ。まだ考えていない。あなたも少し考えてくれない?」
「少し時間が欲しいな」

とにかくポスターの撮影を済ませてしまわなければならなかった。
そのあとのことは、もう一度、あの館を訪れて、あの場で、
考えてみたいとも思った。

「チャオ! ナミ!」
そのとき、ナミの後ろに男が立った。
声をかけながらも、すでに手をナミの背に添わせている。

視線を上げると、薄い灰色の男の目がジンを見つめていた。
ナミの愛人の若者だった。
「まあ、アル……」

若者がナミの隣に腰をおろす。
ギャルソンがどうするかと目で尋ね、ナミが肯くと、
若者の前にもシャンパングラスが置かれた。

「何のお祝い?」
「アル、あなた、どうしたの?」 ナミが若者の質問に答えず、そう尋ねた。

「最近連絡がないから、ちょっと寄ってみたのさ。
まさか新しい恋人ができてたとは知らなかった」
「そんなんじゃ…… こちらは一緒に仕事している……」

「パク・ナムジンです。ナミさんには映画のシナリオを書いてもらっています」
「ナミがシナリオだって?」 若者はナミしか見ていない。

「ええ、そうよ」
「じゃ彼は……」
「映画監督兼、主役の俳優なの」
「どうりでハンサムなわけだ。いや失礼。
僕はナミの、その……友人で、アルヴィーゼ」

ようやく差し出してきた若者の手を、仕方なくジンは握った。
アルヴィーゼの冷たい手にも、力は込められていない。

「君はどういう仕事を?」
別に意地悪な気持ちでなく、
他に話題がなかったので、ジンはそう訊いてみた。

「僕、ですか?
僕は…… いや、言うのはやめておこう。ナミがいやがるから」
「いやがる?」

「そう、ナミは僕が何者で、何をしている人間なのか、一切知ろうとしない。
知ってしまったらおしまいだって、いつも言ってるんだ」
ナミは黙っている。

「それにしても……」 とアルヴィーゼが続けた。
「その仕事とやらに、ナミは相当入れ込んでるらしいね。
こんなに長く連絡をくれなかったのは初めてだ」

「ええ、入れ込んでるわ」
ははは……とアルヴィーゼが笑った。
「正直な人だ。本当に満ち足りた顔をして……」
「そんな言い方、アルらしくないわ。酔ってるの?」 ナミの声が悲しんでいた。

ジンはギャルソンに、勘定を頼むとささやき、立ち上がる。
これ以上二人のやり取りを聞いていたくなかった。

「だって君、毎晩たっぷり可愛がってもらってるって、
そんな顔をしてるじゃないか」
アルヴィーゼはジンにかまわずにしゃべっている。

ナミがジンを見た。
その目に浮かぶ憐れみは、誰に向けられたものだろうか。
ジンにか、アルヴィーゼにか、それとも自分自身に対してだろうか。

ナミは若者に振り向き、言った。
「私、毎晩たっぷり映画と寝てるから」

それからもう一度ジンに向き直り、立ち上がった。 つとからだを寄せてくる。
イタリア式の、右、左と、頬と頬を合わせる挨拶のためだった。

ジンの耳元でささやく。
「ごめんね……」
「いいえ……」
「電話、するわね」
ジンが最近聞かなくて済んでいた、沈んだ声だった。

 

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