声 vol.4

posted in: | 0 | 2009/3/27

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『キッコ、キッコ… 』
水の底を流れる音のように、ドンファが私を呼ぶ。
そっと肩を揺すぶられる。

『ドンファ… ドンファ?!』 

私はソファーから跳ね起きた。
『ごめん、 会議が長引いて…』

急いでブラウスの前を合わせ、胸を隠そうとする…
だがボタンはすべて留められており、下着もしっかりと身につけていた。

私はあわて、ドンファが見たであろう自分の姿態を思い、
恥ずかしくて両手で顔を覆った。

『ごめん、ドアがロックされてなかったから…』 
『あ、あたし… 酔っ払って、それで…』
『悪かった。ずいぶん待たせてしまって…』 
ドンファは何も知らないという顔をしている。

私はドンファに寄り添い、肩に頭をもたせてみた。
かすかに女の香水の匂いが漂い、私はドンファから体を離す。
ドンファはここに来る前に、他の女を抱いてきたのだろうか…

『ワイン、まだある?』
『もうあんまり残ってない』
『ごめん…』 またドンファが謝ったので、私は少し笑い、
残ったワインを彼のグラスに注いだ。

『怒ってる?』 
私は答えず、乾杯と、からっぽの自分のグラスを合わせる。
ドンファが自分のワインを半分私のグラスに注ぎ、
『乾杯』 と言った。

優しい声…
私のウエストに添えられた優しい手…
少しも熱くならず、少しも私を欲しがらない。

さっきは喜多の声と共に、あんなに強く私を抱いてくれたのに、
あなたは本当にあのドンファと同じドンファなのか…

『どうかした?』
『何人もドンファがいて、どのドンファが本当なのか、わからない』
私はおさない子供のように言ってみた。
ワインの酔いにまかせて。

『どのドンファが好き?』
『わからない』
『どのドンファが欲しい?』
私は答えることができない。このドンファ、などと選ぶことはできない。

『僕が欲しい?』 黙って肯く。
『そんなに?』 こくんと、もう一度肯く。
『すました顔で、男なんて興味ないってバリバリ仕事してたキッコが?』
ああ、また別のドンファだ。

『だから私を誘ったの?』 子供の私が、消えていく。

『ごめん』 またドンファが謝った。
『ドンファ、もう私に謝らないでくれる?』 
『やっといつものキッコだ。 君にも色んなキッコがいるね』

私はドンファから視線をはずした。
そうだ、ドンファを欲しいとだだをこねる、
欲望にまみれた子供じみた女ばかりではない。
プライドが傷つくのを恐れ、自分をさらけ出すのをためらう、わけ知り顔の女もいる。

『ひとつだけ教えて。
私も、たくさんの女の中の一人なの?』
『そうだよ』 ぬけぬけとドンファが言った。
『僕だって、君のたくさんの男の中の一人だろう?』

『そんな…』
『君は今僕が欲しい。だけど明日は別の男が欲しくなる』
『ドンファ…』 

半年前は違う男が欲しかった。半年後のことはわからない。だからって…
『そんな言い方することないでしょ。
私、あなたのこと…』

ドンファが私の言葉をさえぎった。
『愛してる、なんて言わないでくれよ』
優しい声で酷い言葉をぶつけられ、
大事に思ってる、と言うつもりだったのに、私は違うことを言ってしまう。

『いつも、女は同じことを訊くってわけ?そして最後は愛していると言うのね…』
『そう、だいたい同じだから、僕も同じように答えるんだ。
今ではオートマティックに答えが出て来る』

その声が、しんみりと優しい。

偽悪的なセリフで私を突き放しながら、心の底でドンファは哀しんでいる。
その哀しみの意味を、私は知りたかった。

『今夜は私と寝る気にならない?』 
最初の夜のようにドンファの胸に顔を埋めて、私は訊いた。
『キッコだって…』
『私、さっきあなたと、すごく激しくやっちゃったの』
『妬けるな』 その言葉はまるで本心からのもののように、私には聞こえた。

『何故、今夜来てくれたの?』
『そっけなくして悪かったと思って電話した。
そしたら君がすごく僕に会いたそうだったから。
シンプルだろう?』

私たちは肩を寄せ合い、黙ってワインを飲み、
窓の外が次第に明るくなっていくのを眺めた。

それから彼は私をマンションまで送ってくれた。
断られると知りながら、泊まっていってと誘ってみる。
『ああ… そうだね…』 ドンファの声がいつもより深い。
彼はふっと静かに息を吐き出し、
『いつかね』と答えた。

眠れずにいると、ドンファからメールが届いた。
どうってことない女となら、気楽に抱き合えるんだけどな…

愛してるなんて言わないでねと、私は返した。

 
一日中部屋で過ごし、ドンファのことを考え続けた。

あの夜彼は、私を抱く気なんてなかったのだ。
なのに私の欲望に感応して、声は私を欲しがっていた… 
その声を押さえつけて… 自分の意思を貫こうと、
私だけを喜ばせようと、あんなに… 
まるで修行僧のように…

翌朝喜多に電話した。
『すみませんお休みのところ』
『緊急なこと?』 喜多の声は、いつものようにおだやかで、私を安心させる。
『ちょっとプライベートでご相談が…』

喜多は、午後遅い時間なら都合がつくから会社で会おうと、言ってくれた。
私はすぐに部屋を出た。
ワインのビンやゴミは持ち帰ってきたし、金曜の夜の痕跡は残っていないはずだけれど、
少しでも早く事務所に着いて、もう一度部屋の様子を確かめたかった。

事務所には夜の親密さも、昼の緊張もなかった。
休みの日の学校の教室のように、
まるで私を部外者のように拒絶する空気だけが、
しんと動かずにそこにはあった。

喜多が入ってきた。
『早かったわね』
『喜多さんこそ』 
『実は隣にいたの。あなたが来たのがわかったから』

ソファーに座ると、
『個人的なことって?』 と喜多がいきなり訊いた。
いつも以上におだやかな声だった。

この声で聞かれれば、私はどんな質問にも答えてしまう。
それなら自分から話そう。

『ときどき、夜事務所で過ごしていました。申し訳ありません』 と

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