色・褪せない 番外編 ② マサイの夫・日本の妻

posted in: 色・褪せない | 0 | 2010/12/8
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–番外編・異文化と愛と性 補足

『私の夫はマサイ戦士』 永松真紀 新潮社(2006.12)

 

 

◆受け入れるということ

著者は2004年に、マサイ族のジャクソンからプロポーズされる。
だが、彼にはすでに第一夫人がいた。
一夫多妻制は、私たちにはなじみのない制度だけれど、
彼女は、マサイの女性と同じようには自分はできない、
むしろ第一夫人が伝統的な妻の役割を担ってくれるのは好都合だ、と考え、
結婚を承諾する。
出した条件は、 ガイドの仕事を続けられること。

妻は、基本的にはナイロビのアパートに暮らし、
しかもしょっちゅう仕事で家をあけ、
マサイの村にはたまに通う、という結婚生活となる。

このような妻に、夫は嫉妬しないのだろうか?
これが、しないのである。
妻のほうも、マサイの淡白なセックスのためか、
また、完璧に役割を分担しているためか、 第一夫人に嫉妬を覚えない。
永松さんは、ルケティンガのコリンヌに対する嫉妬(前話参照)は、
西欧人の濃密な性になじんだために生じた、と分析し、
一方自分たちは「信頼」で結ばれている、と言う。

この「信頼」は、思うに次のような条件の上に築かれている。
まず二人には、最初からコミュニケーションツールがあった。
ジャクソンはスワヒリ語を完璧にしゃべるし、
永松さんも長くケニアに暮らしており、言葉に不自由はない。
加えて彼女には、マサイについて俯瞰的に見られる知識と経験があり、
彼らの伝統と文化を尊重し、敬意を抱いている

結婚にしても、コリンヌが自分の気持ちだけで突っ走ったのとは異なり、
二人で話し合い、 周囲の人に意見を求め、可能な形や意味をさぐり、
納得して踏み切っている。

というふうに、二組の夫婦をどうしても比較してしまうが、
他にも印象的な違いがある。

たとえば結婚式。写真を見ると、
コリンヌはスイスから持ってきた純白のウェディングドレスを着ている。
そのドレスを着て結婚式を挙げるのが夢だったのだ。
村の人びとは驚きながらも、珍しさと美しさを、好意的に楽しんだようだ。
一方永松さんは、マサイの衣装を無理のない範囲で取り入れた。
たとえば、たくさんのアクセサリーはあまりに重かったので、量を減らしたり。

家についても異なっている。
マサイでは家は妻がつくり、夫はそこへ通う。
コリンヌは村の女たちに頼んで、少し大きめな家を、
牛糞の壁で建ててもらった。

永松さんも人頼みは同じだが、
自分にマサイ風の家での暮らしは無理と、コンクリートで建てる。
土間に寝ると、必ず蚤に全身を刺されてしまうのだ。

彼女は、異なる文化と慣習を抱えたを者どうしの生活に、
とても実際的に取り組んでいるように見える。
ケニアに知り合いも多く、自分のネットワークを持っていることも大きい。

セックスに関しては、彼女も親密な触れあいを欲してはいる。
だが、自分たちの、肉体と精神のよりあわさった性愛感の差異の大きさを、
冷静に見つめてもいる。

新婚旅行に出かけた海辺のホテルでのこと。
永松さんは思い切ってジャクソンのからだに触れてみた。
が、彼はからだを強張らせるばかり。
彼女は愛撫も、その先のこともあきらめるのだが、見ると彼は勃起している。
ところがジャクソンは、自分のからだの変化に気づいてさえいない。
彼女は、ああ、心は勃起していないのだ、と理解するのである。

時代も変わった。
夫婦生活を取り囲む環境も、当然変化している。
ジャクソンはラジオでスワヒリ語を覚えたのだが、
ラジオは同時に、外の世界を伝えてくれるものだ。
また、村に電気はなくとも、マサイに携帯電話は必需品となった。
意思疎通のツールは、相手の行動をすぐに確認できるという意味でも、
信頼関係の強化に役立つものだ。

コリンヌとルケティンガと違ってこちらの夫婦は危なげはないし、
末永く幸せに暮らしていってくれそうである。
めでたしめでたし。

この本には、マサイの今が描き出されていて興味深いのだが、
以前と変わらないものも記されていた。
キリスト教団体である。
彼らはマサイに、医療や教育など様々な援助を行っている。
が、彼らの慈善と布教活動はセットになっている。
永松さんは、援助の必要性も意義も認めながら、
伝統的な宗教が失われつつあることに、危惧を抱いてもいる。
そう言えば、ルケティンガの故郷サンブル村の近くにも立派な伝道所があり、
コリンヌはそこの神父にずいぶん助けられた。

しかし、マサイ(アフリカ)に「神」の救済と恩寵を説くことと、
自分たちの恋愛感や性愛や、
「神」が定めた貞節を求めるのは同じことだと、あらためて思う。

「愛」(性愛)と宗教は、それを絶対視することと、
それを 邪気なく、疑いもなく分かち与え、
相手にも行為と精神の両方において、
同様のものを求める点でも、よく似ている。

さて、キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝い、教会で結婚式を挙げ、
(人気の海外挙式には「マサイの村で民族衣装コース」などもあるが)
明治期に流入した西欧近代恋愛の洗礼はしっかり受け、
なのに西欧人ほど濃密なスキンシップの習慣を持たない私たちは、
どうなのか。 宗旨替えしたのかしていないのか、
あまりの節操のなさによくわからないのだが、
それでも、ある価値観を押し付けられた側ではあるし
(今でも押し付けられ続けているかも)、
同時に、押し付ける側にもいる、ということは確かだ。

永松さんのマサイに対する冷静な観察と親和力は、
そんな日本人だからこそ、なのかもしれない。

 

◆受け入れられないもの

外国人女性が、マサイとの結婚生活において遭遇する習慣で、
大きな違和感を覚えるものが二つある。
一夫多妻制と「女子割礼」である。

一夫多妻については、永松さんはメリットもあると納得して、受け入れた。
コリンヌの場合は、結婚の届け出のとき、ルケティンガが、
もし複数の妻を持てないのなら彼女とは結婚しない、と主張するので、
5年間は待ってくれと条件をつけ、譲歩した。
彼女もしぶしぶとではあれ、これは受け入れたのだ。

では「女子割礼」はどうか。
これはコリンヌは拒否、ルケティンガも強要はしなかった。
永松さんは自分のことでは触れていないけれど、
ジャクソンは外国人にマサイの習慣を押し付けない、と書いているので、
求められることはなかったのだと思う。

ただ、結婚の際の話し合いで、仕事を続けるという条件の他に、
割礼についての取り決めをしている。
彼女は、子どもが男の子だったら受けさせる、
女の子だったら、成人後、本人の意志に任せる、とした。

マサイ族では「女子割礼」は結婚の際に行われるので、
これはこれで一つの判断だろう。
だが、アフリカの他の地域のように、幼いうちに行われるとしたら、
果たして彼女はどうしただろうか。
母親として、娘に「女性器切除」を許せるだろうか。

コリンヌの子どもも、女の子だった。
彼女がルケティンガから去ることを決めるのに、
マサイの女性が置かれている状況や、
課される慣習に対する否定的な気持ちも、あったことだろう。

私はここで、「女子割礼」と「女性器切除」の両方の言葉を使っているが、
実を言えば、いずれの呼び方にもなじまないものがある。

この慣習に対しては、内と外に、それぞれ同じ二つの声がある。
まず、人権問題としての非難・抗議。
一方で、これは伝統文化であり、反対することは、
西欧の価値観の押し付けである、というもの。

「女性器切除」という呼称は、非難・抗議の動きのなかで、
実態をより正確に伝えるものとして、主に西欧から出てきた。
外から与えられたこの容赦のない呼び名に、
アフリカの人々(女性も)が反発するのはわかる。
行為の是非以前の問題として、である。

だが「女子割礼」では、宗教的・慣習的・伝統的に男子の割礼と同じ、
という意味あいになってしまう。
成される行為の意味を、少なくとも当の女性たちが、
自分の目で見つめ、自分の頭と肉体で考えたとき、
これは男子の割礼と同じだと、言うだろうか?

「女性器切除」という言葉に込められた二重の暴力性、
つまり、行為の暴力性と、それを否定する外部からの暴力性に、
ますます気が重くなりながらも、いずれかと言われれば、
やはり、「女性器切除」と呼ぶしかない。

私は、「女性器切除」は、纏足や奴隷制と同じように、
他人のために、人間の肉体が使役され、損傷を受けることだと、
単純に捉えている。
これを、ある地域の、尊重し、守るべき伝統文化とは思えない。

だから、外部の人間が、
「女性器切除」を非難することは西欧の価値観の押し付けであると、
(図式的にはまさにそうであるが)言いっぱなしにすることに、
割り切れないものを覚える。
私たちにとってこの問題を複雑なものにしているのは、
行為だけを切り離して語ることができないから、
私たちとアフリカの関係が、もつれ、絡みあっているからだけれど、
だからと言って、ここで「価値観の押し付け」を持ち出せば、それは、
沈黙と思考停止に対する、体のいい言い訳になってしまうのではないか。

そしてもうひとつ、一見もっともなこの言い分を聞いたとたん、
なにを今さら、という思いが即座にこみ上げることもある。

伝統的な文化を尊重したいと言うのなら、同時に、
それを破壊し続けてきたもの、今も破壊し続けているものにも、
言及すべきだろう。
たとえばイスラムやキリスト教が成してきたこと、とか。
また、奴隷貿易や植民地化が、今に及ぼし続けている問題だけでなく、
現代の「植民地化」を推し進めている動きも、
批判的に検証する必要がある。
そもそも、ナイキのスニーカーを履き、サムスンの携帯電話機を持ち、
SONYのラジオでニュースやポップスを聴くマサイの暮らしに
(メーカー名は未確認ながら)、
私たちは全く関係のない部外者なのだろうか?

「女性器切除」は、もちろん、
アフリカの男女の関係のありかたと社会構造に関わる、
非常に根深い問題だ。
末端の行為を、それこそ「西欧的な価値観」で批判、
あるいは禁止するだけで、変わり得る類のものではない。

ただ、最近では、近代化を進める国の政策として、
ケニア(!)など、公式には禁止しているところもある。
が、その数はそれほど減ってはいないのが実情のようだ。
「女性器切除」が大人の女の証であり、結婚の条件であるような社会で、
母も姉も受けているものに、幼い少女が疑問を抱くだろうか。
母も姉も、娘や妹の女としての不利益を犠牲にしてまで、
反対を唱えるだろうか。

内部からの告発や反対運動があるとはいえ、
それらの声も動きも、大多数の人々には届いていない。
そういう社会で、外圧による形だけの禁止が、
どれだけの効果があるのだろう。

「女性器切除」を受けた母や姉が、まずこのことの意味を、
問い返す必要がある。
だが、彼女たちは、自分が奪われたものを、
どのように見つけ出せるのだろう。
内的な要因、それをうながす刺激……。
内省と、情報を読み解くためのツールも必要だ。

だが、そのためには、社会が平和で豊かでなければならない。
内戦もなく、旱魃の影響は国が有効な手段を講じ、
衣食住が足りていなければならない。

自分たちが拠っている価値観を根元から疑うということは、
本当に難しいことで、 アフリカでも、西欧でも、日本でも、
それは同じである。だが、アフリカにおいては、
全てが足りている、情報も知識もツールもたっぷりと持っている、
私たち西欧(化された側)より大きな困難が、幾重にも重なっている。

「女性器切除」の具体的な内容については詳述しない。
(興味のある方は検索してね。)
だが、この連載のテーマである、
女性にとっての性愛とその表現、という観点から生じた疑問については、
記しておこう。
「女性器切除」が行われている社会で、 女性の手による、
性愛の主体としての女性像や性愛表現は、あり得るのだろうか。
それはどのようなものだろうか。

だが、「女性器切除」を受けていようといまいと、
彼女たちが私たちと同じように、
(本来的に)性の主体であることに変わりはない。
私たちも長く、その自覚と表現を持てずにいた、ということも同じである。
だとしたら、彼女たちに、たたかいや模索や、変化や、
脈々と内に流れてきたものの発見があることも、きっと同じだろう。

私はどこかで、アフリカの解放的な性について、読んだ記憶がある。
それら独自の性愛が、もし女性の手でおおらかに描き出されたら、
それはどんなものだろう。
彼女たちの性的ファンタジーは、どのような物語であるのだろう。

アフリカの女性たちが今まず書くことの中に、
これらは含まれないかもしれない。
書かれたとしても、そのとき私(たち)は、
読者として想定されてはいないだろう。
けれどもいつか、SONYのラジオと逆の道をたどって、
それらの本が私(たち)にも届いたら、とても嬉しい。

しかし今回、アフリカについては知らないことが多すぎると、
思い知らされた。特に小説その他の表現について。

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