3-11 クラブ・ジェイン エピローグ -ブッシュ・ド・ノエル

posted in: クラブ・ジェイン | 0 | 2009/5/11

jein_title.jpg

 

オステリアはこの夜テーブルが取り払われ、
片隅にわずかに椅子が並べられるだけになる。

「申し訳ございません。
本日はご予約いただいている方だけのパーティーで……」
入り口ではギャルソンがフリーの客を断っている。
ただしクラブのアクターとクライアントであれば、予約は必要ない。

ジェインはぐるりと周りを見回す。
飾りつけは控えめだが、それでも店内はいつもより華やいでいる。
樅の枝に下がるゴールドのオーナメント、先端に輝く星、
女たちの白い喉を滑り落ちる、泡立つ液体。

「……一斉にね、街がクリスマス一色になるんだ。
どのショーウィンドウも競うように…」
「ヨーロッパのクリスマスマーケットはいいけれど、寒いのは…」
「気にならないさ。いや、寒いからいいんだよ、
ウィンドウのきらめきがむしろ……」

からみあいながら漂う会話の断片に、アヤの声が混じっている。
「でも24日になると、街はひっそりとして…… 旅行者には寂しいわ」
「そりゃ君、あっちじゃ宗教行事だから……」

ジェインの視線が、
夏からアヤのクライアントになった精神科医の背中に、
ついで男の話に頷く艶やかな笑みにとどまる。
あのとき医者は苦手だと自信をなくしていたアクターは、
今はどこにもいない。

医者の知り合いの、古くからのクライアントが二人の会話に加わった。
連れている女のドレスが派手過ぎる。
ジェインは目をそらし、もう一度店内に視線を泳がせる。

「やっとつかまえたわ」
気が付くとアヤがすぐ近くにいた。
「あなたこそやっと来てくれた。さすがに人気者だ」
「古株には義理立てする人が多いってこと」

ギャルソンが、グラスを並べたトレーを持って脇に立っている。
「もうシャンパンはたくさん。
パネットーネと、濃い赤をお願い」
アヤが疲れているようなので、奥まったコーナーに置かれた椅子に誘う。

入り口までをさりげなく見渡したあと、ジェインも隣に腰を降ろす。
「みんな挨拶に来た?」
パネットーネをほおばりながら、アヤが言った。
「ほとんどね」
「新人がいないじゃない」
「新人?」

聞き返したが、誰のことを言っているのかはわかっている。
「ええ、あなたのお気に入り」
ズバリと返され、それで肩の力が抜けた。
「お気に入り、か……」

「今夜、どうするの?」
アヤが尋ねた。
クリスマスのパーティーのあとはアヤの部屋で過ごすのが、習慣のようになっていた。
習慣化してはいても、いつも数日前までには連絡していたのに、
今年は今に至るまで触れずにいる。
「どうしようかと……」

大ぶりのグラスのワインを、目を伏せて味わっているアヤの表情は、窺えなかった。

「何年たつ?」
「あなたがクリスマスに私と寝るようになってから?
あれは確かマリエちゃんがいなくなった次の年だから……」
「いや、初めてアヤさんに会ってから」

「そんな昔のこと覚えてやしないわ。
でもあなたは確か、高校生だった」

アヤは多くのことを教えてくれた、優れた教師だった。
もしかしたらあの頃、父の愛人だったのかもしれないが、
そのことには三人の誰も触れないから、真偽のほどはわからない。

「クリスマスイブの夜、今日と違って冷たい雨が降っていた」
「そうだったかしら」

ジェインは16歳だった。
だから何年経ったのかは、指を折って数えるまでもない。
その数日前、父の仕事がレストラン経営だけではないことを、母から知らされた年。

「ああ、思い出した。
あなたのお父さん、変ってたから。
イブと25日と、クリスチャンは休んでいいって。
だからあの夜、にわかクリスチャンになった女の子が何人かいて……」

全てのことが、初めてだった。
夜の繁華街に足を踏み入れたのも、
裸の女から愛撫を受けたのも。
それが女の仕事だということも、初めて知る真実だった。

アヤは行き場のないジェインの怒りを、性欲に変えた。
その攻撃的なエネルギーを、咎めもせずに受け入れた。
父にぶつけようと意気込んでいた、けっして言葉になどできない感情のもつれを、
やわらかにほぐした。

あの場に本当に父はいなかったのか、
殺気立った少年を見て、とっさにアヤが機転をきかせてそう言ったのか、
今となってはどうでもいい。だが、

「あのときアヤさんに会わなければ、今の僕はいない。
クラブを始めることも、なかっただろう」

思い返せば、節目となるときには必ずアヤがいた。
「感謝している」
「おおげさね」

精神科医が、二人に近づいてこようとしていた。
「私もたまには仕事を離れて、ただの、一人の、女になりたいわ」
「すまない。今夜は……」
「来ないと思ってた。だから……」
アヤは精神科医に小さく手を振る。
「彼と、約束しちゃった」

立ち上がったアヤの目元のかげりに、この夜初めてジェインは気づく。
時を重ねた女の、美しい勲章。
張りを失った肉のたわみが、切なく、愛しく、よみがえる。
「アヤさん……」

もし会ったら、彼女に伝えてね。
私からも、メリークリスマスって。

その言葉に送られるように、ジェインはオステリアをあとにした。

ありがとう、
あなたにも、素敵なクリスマスを……。

溢れかえる何かに戸惑うだけだった少年を、大人の男に変えてくれたひと、
その中から剥き出しの欲望の核を取り出すために、
幾重にも物語が必要なのだと、教えてくれた。
けれどもそれはたやすいことではないと、
多くの人は、自分の力だけでは、
物語を疲弊させずにいることが難しいのだということも。

マンションに向かいながら、携帯を取り出す。
自分は何を求めているのか、何を待っているのか、
こんな夜に一人になれば、もう目をそらすことも出来ない。

少し飲みすぎたようだ。
液晶パネルが見知らぬ画像に見える。
ボタンを押し間違えるのを怖れて、ポケットにしまう。

ゆっくりと、木立の間を歩く。
落とされた枝が数本、渦巻く断面を見せて、道の端にころがっている。

ブッシュ・ド・ノエル……

突然、封印を解かれたように、その言葉が浮かんだ。
続いてある女の名前も。
胸のうちでその名をつぶやいてみても、もう痛みは感じない。

帰るなり熱いシャワーを浴びたが、酔いは覚めなかった。
なぜか、ボローニャの大聖堂で遭遇したパイプオルガンの調べが、
頭の中で鳴り響いている。
聖なる、荘厳な、古びた、幾重にも重なりあい、余韻を持って広がる音調。

著名なオルガン奏者の演奏は、ひと気のない聖堂を満たし、
練習のためと言うより、神への捧げものそのものだった。
ロザリオや絵葉書の横に並んでいたCDを買ってきたのに、あまり聴くこともない。
狭い箱から流れてくるものはただの音楽になっていたから。
だが今夜だけは違うかもしれない、
そう思って棚を探していると、電話が鳴った。

「渡したいものがあって……」
声の背後に風の音が聞こえる。
オステリアの前に立つ、冷たい風にコートの裾がめくれ上がる姿を思い、
迎えに行こうかと言ってみる。
「いいえ、少し歩きたいから」

受話器を置き、あの枝を拾ってくればよかったと、ジェインは思う。
暖炉に薪をくべ、部屋を暖かくしておかなければ……。

ここがまるで、森の奥の山小屋ででもあるかのような気がするのだ。
暖炉に燃える炎は明るい光となって窓からこぼれ、
僕の元にやってくる女の、道しるべにもなるだろう。

待つ時間は長かった。
凍える暗い夜に、いったいどこを歩くというのか……。
けれども、絶対、迷うことなく、彼女は来る。
疑いようのない確信に、ジェインの酩酊は覚めるどころか深まっていく。

チャイムが鳴った。
「はい……」

さっきの電話とは違う声音で、インターホンが答えた。
「私よ、マリエ」

まさか……。
考えるより前に、体が動いた。
廊下に飛び出し、エレベータを待つ。

点滅する数字を目で追っていると、
予兆のように転がっていた木の枝が浮かんだ。
そう、あれはまさしくブッシュ・ド・ノエル。

扉が開いた。

「ケーキ、持ってきたの」
ゆるやかなウェーブの明るい色の髪、
華やかな微笑み、
ブッシュ・ド・ノエルの箱をぶらさげた腕が左右に広がり、
はだけたコートの下から、深紅のニットワンピースがのぞく。

ルゥ、君……、

そう言ったつもりだったのに、
口をついて出た名前は違っていた。
「マリエ……」

腕がからみついてきた。
きゃしゃな背中をきつく抱きしめる。

 
ジェインも何故と問わず、ルゥも何ひとつ説明しなかった。
ルゥが自分の元にやってきた。しかもマリエになって。
周到に練られ、決められた筋書きのように、
そのことを不思議とも、ジェインは少しも思わないのだ。

マリエ、
そのワンピースを脱ぐところを、僕にみせてくれ。
身にまとったたくさんの物語を、一枚、一枚、脱いでみせてくれ。
剥き出しの、赤裸の欲望をさらけ出すために。
最後の一枚まで……。

それから、互いの暖炉に薪をくべよう。
清らかで聖なる灰になるまで、それを燃やそう。
僕たちがかつてからめとられ、足をすくわれた物語も、
ついに核を取り出すことのできなかった物語も、一緒に燃やしてしまおう。

そうすれば森の奥に朝陽が射し込む頃には、
物語りはきっと最後の一条の煙となって、
天に昇っていくに違いない。

 
「コーヒー、いれるわ」
「いや僕がやる。君はフレンチトーストだ」

茶色の液体がフィルターを伝ってポットに落ちていく。
片手で、ジェインのシャツを羽織っただけの細い肩を抱き寄せる。
首筋に顔を埋めれば、立ち上るコーヒーの匂いに、燃え尽きた灰のなごり香が混じる。

マリエ、
と呼ぼうとしてやめる。

ルゥ……、
これも違う。

「ほら、コーヒー」
夜じゅう官能に奉仕した白い指が、
膨らんでいた粉がしぼんでしまったのを見咎めて、ポットを差す。

「リョウ……」

ようやく違和感のない名前を探り当てて、
ジェインは満足の笑みを浮かべる。

「君こそ、トーストを焦がすなよ」

くったくなくフライパンに向かう、若い、まだよく知らない女。
それなのに深いところで、互いの核を掴みあった女。

これからもマリエと、ジェインは呼ぶだろう。
あるときはルゥと。
また別の時には違う名を。

きっとどう呼んでも、リョウは応えてくれる。
どんな名であっても、変らずその白い指を、
僕の中心の剥き出しの欲望に向けて、まっすぐに伸ばしてくる。

クリスマスの朝にそう思えるのは、素晴らしかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください