2-02 クラブ・ジェイン/ルゥ

posted in: クラブ・ジェイン | 0 | 2009/5/10

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ここはどこなのだろう。
乾いた手触りのいいシーツは、自分のベッドのものではない。
恐る恐る右手を伸ばしてみる。マットレスの果てはない。
今度は同じように左手を伸ばしてみる。やはり手は熱のこもっていない、
ひんやりとしたシーツの心地よさをまさぐるばかりだ。

うっすらと目を開け、自分が広い部屋の真ん中の、
大きなベッドに寝ているのを確認する。
切れ切れに記憶がよみがえる。
モモのペニスを握ったこと。アイスピックを握るように。
”オステリア”で、あのときジェインの指を握ったように。

モモが私のはだけた胸にしゃぶりつくように唇を寄せ、
それから……、それからどうしたのだったか。
ふわりと、体が浮いたことは、かすかに覚えている。

そうだ、私をベッドまで運び、
好きにしろよ、そう言ってジェインは部屋を出て行こうとした。
だめ、あなたもここに、一緒に寝て。

リョウはジェインの胸にすがるようにして眠りに落ちたのだ。安心して。
ずっと待っていた人が来てくれたように思えて。
だがベッドには、右に寝ていたジェインも、
左に横たわっていたモモもいない。

昨夜飲んだワインの量から、ひどい二日酔いを覚悟してからだを起こす。
けれども予想とは違って頭は重くもないし、
胸の奥からこみ上げる不快感もない。

部屋を見回す。服は……、どこにもない。
リビングに脱ぎ散らかしたままだろうか。ひと気のない、
見知らぬ家の廊下を裸で歩くのは落ち着かなかったが、仕方がない。

ソファーの前のテーブルには、厚みのある本が何冊か乗っている。
昨夜ジェインが、プラドのティツィアーのダナエや、
他の画家のダナエを見せようと、書棚から取り出したものだ。
だが結局本は開かれなかった。

服を持って寝室に戻る。
壁の一室が透明なガラスになっていて、その向こうはバスルームだ。
明け方、雨の音がすると目が覚めると、
透明な壁の向こうでジェインがシャワーを浴びていた。
はっきりと、その姿を見た覚えがある。
それなのにバスルームは使われた痕跡もなく、乾いていた。
あれは夢だったのか……。

だが、今のリョウにはゆっくりと記憶をたどる時間はない。
急いでシャワーを浴びる。
鏡の前には、未使用の基礎化粧品の小瓶が置かれていて、その横にメモがあった。
『オフィス・J経営のビューティー・サロンのものだ。
モモを送ってくるから、朝食を食べて待っているように。ジェイン』

できればジェインと顔を合わせずに帰ってしまいたかった。
これで採用は流れたかもしれない、とも思う。
けれどもそれならそうと、はっきりと告げられたほうがいい。
気まずさを抱えたまま何日も過ごすのはいやだ。

リョウは覚悟を決めて、用意されていたバスローブではなく、
自分の服を着る。
シャツのボタンを一番上までとめる。

リビングに戻る。ジェインはもうすぐ帰って来るはずだ。
早くこの場から逃れたい、だが同時に、
いつまでもここにとどまりたいとも思う。

テーブルの上に積み重ねられた一番上の本を手にとる。
19世紀末のウィーンの画家クリムトの画集だ。
挟まれたポストカードのおかげで、自然にダナエのページが開く。
カードは暗い背景にバーのカウンターが浮かびあがったモノクロ写真で、
どこか“バー・ニュイ”を思わせた。

不自然に広がる周囲の空間と強いスポットライトで、
舞台の一場面だとわかる。Mで始まる判読しにくいサインは、
カウンターの中で横顔を見せている女優のものだろうか。

クリムトの絵は、見たことがあった。
雑誌だったか、それとも母が持っていた世界名画全集のなかでか。
だがそのときには、これがダナエだということも、
ダナエにまつわる物語がどういうものなのかも、知らなかった。

ダナエの父アクリシオスは、自分の娘が生む子供に殺されるという神託を受け、
彼女を青銅の塔に閉じ込め、老婆を見張りにつける。
だが父の懸念もむなしく、回避策は無駄に終わる。
ゼウスが天からダナエを見初めてしまったのだ。

ゼウスは黄金の雨となってダナエと交わる。
やがて生まれた英雄ペルセウスは、ある日競技会で円盤を投げ、
それが祖父のアクリシオスにあたってしまう。
こうして宣託は現実のものとなった。

クリムトのダナエでまっさきに目に入るのは、現代的な女の顔だ。
モデルか女優のようにきれいなカーブを描く眉、
閉じられたまぶたを覆うまつげ、そして深い喜びに半開きになった赤い唇。

それから視線は、ほぼ正方形の画面に、
ダナエの全身が不自然に折り曲げて描かれた構図を捉える。
前面の、カーテンの布地のような濃い色に対比する白い豊かな腿が、
迎え入れ、挟み込み、締め付けているのは、まさに黄金の雨だ。

高速のシャッタースピードで捉えられた後、
ゆっくりとスローモーションに切り替わって、
延々と引き伸ばされたダナエの恍惚の一瞬。彼女の歓喜は、
やがて甘いまどろみに溶けていく。

同じようなまどろみが、昨夜のリョウにも訪れた。
リョウはこのダナエのように満足して、眠りに落ちたのだ。
全体の記憶はあやふやなのに、この絵は昨夜の自分だと、リョウは思った。

一方レンブラントのダナエは、光と影の陰影が美しい。
女の肉の柔らかな質感、重力にしたがってたわみ、陰りをつくる女の胸と腹。
それから印象的なのは、画面の外に兆す黄金の雨に向かってさしだされた腕。

レンブラントではカーテンの陰で様子をうかがうだけだった老婆は、
プラドのティツィアーノでは、物語に重要な役で登場している。
天から降り注ぐ雨に視線を向けるダナエは、重ねた枕に悠然とからだをあずけ、
自分に訪れる未来を少しも疑っていない。
だが哀れな老婆に未来はない。目の前の現実にただ踊らされている。

金の雨を受けようと、広げた布の端を握り締める無骨な指、
筋の浮き出た腕、くすんだ肌、骨ばった背中。
ダナエのふくよかさ、柔らかさ、優美さ、肌の白さ……。
一方老婆が身にまとうものは、若さを伝えるダナエの全ての属性と反対のものだ。
世俗的な時間の中に生き、その時間の終焉を間近かに見るくぼんだ眼。

だが老婆も欲してはいるのだ。黄金の雨を。
いや、老婆は数十年後のダナエなのかもしれない。
もはや自信を失った、それでも降り注ぐ雨を待ちわびる……。

食い入るように画集をみつめていると、突然空腹を感じた。
勝手に朝食を食べるなど思いもよらなかったが、
この期に及んで意地を張るのも、ばかばかしい。

冷蔵庫から卵を取り出し、スクランブルエッグを作る。
ベーコンもカリカリに焼く。新鮮なフルーツをカットし、ヨーグルトであえる。
トーストにはたっぷりのバターとジャム。
それから大ぶりのカップにカフェオーレ。三枚目のトーストを焼こうか、
それともフレンチトーストなんてものを作ってみようかと迷っていると、
ジェインが帰ってきた。

「ずいぶん豪勢だな」
おはようもただいまもなく、よく眠れたかとも、ジェインは訊かなかった。
「最後の晩餐、じゃなくて最後の朝食、かもしれないから」
「最後?」
「私の採用、取り消しですよね」

リョウの言葉に、ジェインは笑った。
「採用はもう決まっている。昨夜のことは関係ない」
「あんな醜態をさらしても?」
「問題ない。君の意外な一面が見られてかえってよかった。
それより腹ペコだ。まさか僕の分がないなんて言わないだろうな」

リョウはフレンチトーストを皿に山盛りになるほど焼き、
コーヒーを二度入れなおし、残っていたオレンジの皮をむいた。

「夕べのこと、ちゃんと覚えてる?」
ジェインが最後のオレンジの一切れを食べ終えると、言った。
「ええ」
自信はなかったが、そう答える。
「モモと僕と、どっちが良かった?」

一瞬耳を疑った。どちらとも寝た記憶がなかったからだ。
だがジェインがそう言うのなら、もしかして二人と寝たのかもしれない。
「どちらも、よかった……、です」
そう言ったとたん、突然ジェインの声がよみがえった。

『やめとけ』 
モモが答える声も。
『だって、こんなに欲しがってる』
『彼女は男が欲しい。だがおまえを欲しいわけじゃない』
けれども、モモも、リョウも、ジェインの言葉を無視した。
かすかに、モモと寝た記憶だけが甦った。

それからは仕事の話になった。
携帯電話を渡され、説明を受ける。
「僕の電話番号がふたつ、マンションと携帯だ。
それから“オステリア”とビューティーサロンの電話番号も記憶させてある。
いずれかで連絡はとれるはずだ。

クライアントと落ち合う最初の指示は僕からする。
簡単な相手の場合は電話だけでも済むが、
いろいろ打ち合わせる必要があるときにはここか、“オステリア”に来てもらう。
とにかく全ての連絡と、クライアントとのやりとりはこれでするように。
ただ、モモに連絡するときだけは、できれば公衆電話を使ってくれ」

ジェインはメモに数字を書きながら続けた。
「モモの番号だ。これは、今覚えて」
覚えやすい番号だった。
しばらく数字を見つめてから頷くと、ジェインはそれをまるめて、
オレンジの皮や卵の殻の乗った皿にほうり投げた。

「わかってると思うけど、あいつ、まだ未成年だから」
「彼を守らなきゃね」
「彼と君、それからオフィス・Jも」

ジェインの言葉の意味をそれ以上考えたくなくて、
リョウはバスルームにあった化粧品のことを尋ねた。
なかなか使い心地がよかったのだ。

ビューティーサロンは、今はネイルケアとヘアケア、
それにエステティックを兼ね備えた店が一軒あるだけだが、
そのうちどこかの温泉施設を買いとって、泊りがけでゆっくりと
集中的なボディケアができるようなクアハウスをオープンしたいのだと、
ジェインは語った。

イタリアのテルメのように、医師や専門スタッフを配して、
体の内面から美と健康を取り戻すようなメニューをつくる。
食事と運動も組み合わせて。
場所は、距離的には熱海か伊東あたりがいいが、
景観としては下田だなと、珍しく饒舌にジェインは語った。

さらに仕事の説明といくつかアドバイスを受けた。
“クラブ”はアクターに対してなんの強制力も拘束力もないということ。
いつでもアクターをやめる事ができること。
システムとしては、クライアントが自由にアクターを選ぶのではなく、
求める関係性をジェインに伝えておき、
それに応えることができそうなアクター数人をジェインが紹介する。

そのなかからクライアントは一人を選ぶか、
あるいは順番に全てのアクターを試してみることもできるのだという。
関係はしばらく続くこともあれば、一度で終ることもある。
だがセッティングは全て“クラブ”を通して行われる。

「最後に……」
ジェインが続けた。
「君にはセックスも求められるだろう。だが、
それに応じてはならない」 

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