2-06 クラブ・ジェイン/ルゥ

posted in: クラブ・ジェイン | 0 | 2009/5/10

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午前10時、約束のカフェにすでに男は来ていた。
よう! と立ち上がり、ジェインの胸にこぶしを突き出す。
そのこぶしをジェインは手のひらで受けた。
男はジェインと同じくらいの背丈だったが、
さらにがっしりとした体つきをしている。

ジェインが男の隣に座り、リョウは正面に腰を降ろした。
「写真のお袋にそっくりだな」
いきなりくったくのない口調で男は言った。それがスタートの合図だった。
「よろしく、お願いします」
ああ、と男は照れ笑いを浮かべる。

「実は俺、ジェインのクライアント第一号なんだ」
「聞いています」
男が名刺を差し出した。そこに書かれた名を、リョウは読んだ。
「シライさん」 
「シライさんはないだろう」
「すみません、あの……、お兄さんは、独身ですか?」
「そう、と言いたいけど、実は違う」

子供もいるのだろうか。
シライの家庭について、ジェインはなにも話してくれなかった。

「ジェインさんとは、大学がいっしょだったとか」
「そうだ。あの頃、なつかしいよな。
実はルゥに頼みがある。よかったら学食に連れていってくれ。
ボリュームだけは満点のまずい飯を久しぶりに食ってみたい」
「ええ……」 

リョウとシライの会話が滑り出したのに安心したのか、ジェインが立ち上がった。
思わずリョウはすがるように彼を見る。ジェインは微笑み、
そっとリョウの肩に触れた。
「大丈夫。君も楽しんで」
そう言うと、シライには片手を上げるだけの挨拶をして、
すたすたと歩いて行ってしまった。

「相変わらず忙しそうだな」 
シライはジェインがいなくなると、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
夕方まで付き合ってくれと言われ、カフェを出る。

家族連れやカップルで賑わう歩行者天国は、少し歩きにくかった。
急に秋めいた涼しい日が数日続いていたが、
今日の陽射しは行く夏を惜しむように強い。

友人同士のように二人は歩いた。
時々リョウの腕が、シライの腕に触れた。
だが彼はリョウの手を取ろうともせず、肩も抱かなかった。

歩行者天国のはずれで客待ちしていたタクシーに乗り込むと、
シライはホテルの名前を口にした。
いきなりホテルに行くとは思っていなかったので、リョウは困惑した。
それに気づいただろうに、シライは知らぬ顔をしている。

大きなホテルの地下には、ブティックが数軒並んでいた。
そのなかの、リゾートウェアと水着を並べている一軒で、
シライはリョウのために水着を選んだ。
一枚は派手な花柄のワンピース型で、
もう一枚はエメラルドグリーンのビキニだった。

試着室を覗かれるかとも思ったが、
彼はサイズはどう?と、外から声をかけただけだった。
どちらが気に入ったかとも訊かず、シライはそれを二枚とも買った。

最上階のプールに連れて行かれ、
ようやくリョウにもシライの意図がわかった。
「泳げる? もし泳げなかったら、俺が教えてやる。
ひと泳ぎしたあとはビールと中華、いやビールとインド料理なんてのもいいな。
どっちがいい?」

「食事だけは、二つに一つを選ばせてくれるのね」
ついリョウは憎まれ口をたたいてしまった。
クライアントが主導権を握るのは当然としても、
少しもこちらの意向を聞いてくれない事に、少し腹をたてていた。
タクシーでホテルの名を出したときのリョウの困惑を、
シライが楽しんだのも気に入らなかった。

「ルゥとどう過ごそうか、ずっと考えてた。
これが俺には最良の選択に思えた。
一緒にプールで泳ぐ、そのあとはビールで乾杯。
もしいやなら映画に行ってもいいし、ショッピングに付き合ってもいい。
昼は学食でも蕎麦屋でも焼肉でもフレンチでもなんでもいい。
でもビールだけは飲めるところにしてくれ」

ずっと考えた末の、最良の選択……。
真面目なのかふざけているのかわからないが、
あまり逆らってはまずいだろうと、リョウは少し反省した。
なんと言っても自分はアクターなのだ。

それに、シライのぶっきらぼうな物言いに、
いつの間にかリョウの気負いが消えていた。
最初は兄と呼ぶのに違和感があったのに、それも気にならない。

今までのように無理をして、精一杯背伸びしなくてもいい。
背伸びした果てに、いつも自分の幼さに打ちのめされていた少女が、どこにもいない。
それは年上の男を前にして、初めてのことだった。

「お兄さんがこんなに強引な人だとは知らなかった。
いいわ。じゃあ競争しましょう。泳ぎは得意なの。
勝ったほうが好きな昼食を選ぶ」

リョウはワンピース型の水着を身に着けた。
シライはひとこと似合うよと言うなり、いきなりプールに飛び込んだ。
ボディビルダーのような身体が、豪快に水を切る。
必死に追いかけても、すぐに離されてしまう。
リョウのかなう相手ではなかった。

途中でリョウはあきらめ、
のんびりと、気持ちよく水に乗れるスピードを保った。
何回ターンしたか数えることもせずに、
疲れるまで泳いでプールから上がった。
シライはリョウのことなど忘れたようにまだ泳ぎ続けている。

タオルで水をぬぐい、チェアに横たわる。
ミネラルウォーターに口をつけて飲んでいると、いきなりそのボトルを奪われた。
ボトルから水が胸に飛び散る。

「もう…… 冷たいじゃない」 
リョウは怒ってみせる。
シライは妹をからかったり、少し意地悪なことをして喜んでいる兄なのだ。
「ビールがまずくなるぞ」
こんなやりとりで、さらにリョウの気持ちは軽くなった。
半裸の逞しい肉体の前に水着姿で立っていても、男と女という気がしない。

もう一度、こんどは競争でなく一緒に泳ごうと、シライが誘った。
プールの真ん中でシライが潜ったので、リョウも彼に従って身体を沈める。
水の底からシライの手が伸びてきて、リョウの両腕を掴んだ。
そっと引き寄せられる。

覚悟を決めて待ち受けると、シライの顔が近づいてきた。
水の中でくすりとシライが笑ったように見えた。
それから唇をリョウの額に寄せると、すぐに腕を放した。
男の腕から逃れるように、リョウは残りの半分を泳いだ。

結局ホテル内の中華レストランに腰を落ち着けた。
中華を選んだのはシライではなくリョウだ。
本当に喉がからからで、心の底からビールが欲しかった。
唐辛子の利いた、ごま油の膜で覆われた肉や野菜が食べたかった。

飲み、食べ、大学の友人たちのことやゼミの話を、リョウは語り続けた。
切れ目なくしゃべりながら、ホテルの部屋に誘われたらどうしようかと考えた。
ためらいがちな水中での接触に、もしかしたらと思ったのだ。

ジェインには、もしクライアントからセックスに誘われても、
自分で断らなければならないと言われていた。
アクターとしてクライアントの気持ちを考えながら。

シライには本当の兄のような親しみを感じ始めていたので、
できるならこのまま関係を深めたかった。
けれどもこの日、シライはリョウを誘わなかった。

マンションの前まで送ってもらったのは、軽率だっただろうか。
少し手前で降りるつもりでいたのに、
タクシーを停めるのにちょうど良い場所もなく、つい玄関前まで来てしまった。
シライに対して、警戒心が湧かなかったのだ。

「また連絡する」 
シライが封筒を差し出した。
初めて受け取る報酬に、リョウは戸惑う。
何をしたわけでもない。ただ一緒に泳ぎ、おしゃべりをした。
水着をプレゼントされ、食事と酒をご馳走になった、それで充分なのだ。
だがリョウは、臆す気持ちを押し隠して封筒を受け取る。
中をあらためる気にはなれず、ぎこちなくバッグに放り込む。

タクシーを見送り、登録された番号に電話をかける。
「今、終わりました」
「お疲れさま。彼からも電話があったよ。気に入ったと、言っていた」
「もうですか?」 
今別れたばかりのシライが、いつジェインに電話をかけることができたのだろう。
「泳いだあと、プールの更衣室から」 

部屋にもどってぼんやりしていると、またジェインから電話があった。
もうすぐマンションの前に着くと言う。
エレベーターを出ると、玄関には艶やかな黒のジャガーが停まっていた。
オステリアのギャルソンが降りてきて、後ろのドアを開けてくれる。
奥には携帯電話を握ったジェインがいた。

「乗って。少し走ろう」
ジェインの隣に座ると、
ギャルソンは助手席に置かれたクーラーバケツからシャンパンの瓶を取り出した。
まずひとつのグラスを満たし、リョウに渡してくれる。
それからジェインにも。

驚くリョウに、ジェインは微笑を浮かべた。
「約束のクリスタルだ。
乾杯しよう、アクター・ルゥの初仕事に」
そう言ってグラスを掲げた。
静かに、ジャガーが滑っていく。
エンジンの音は、四方から流れるジャズよりも、さらに低い。

「疲れた?」
「いいえ、シライさんのおかげで、私、ほとんど気を使うこともなくて。
楽しい時間でした」
「彼は本当にいいやつだから」
シライもジェインのことを、同じように言っていた。

「仲がいいんですね」
「僕たちのこと、何か聞いた?」
「ええ、少し」
いつのまにか街路のネオンが消え、車のスピードが上がっていた。
信号で止まる事もない。
だがどこを走っているかなど、リョウにはどうでもよい。

『ジェインは映研、オレはアメフト、だから本来俺たちにはなんの接点もなかった』
知り合ったきっかけは、学校側からの依頼で、
アメフトの試合をジェインがドキュメントに撮ったことだと、シライは話した。

『あの年、チームはかなりの成績を残すんじゃないかと期待されていた。
ジェインはただ試合だけを撮るのではなく、
練習からチームの姿を追った。
だからキャプテンをやっていた俺とは自然に親しくなって。
スポーツと映画、経済学部と芸術学部、興味も進路もまるで違う、
同じなのは背丈ぐらいなのに、なぜか俺たちはウマがあった』

「ずいぶん昔のことだ」
過去を語るシライの目は時間を遡って、きらめく青春のワンシーンを見ていた。
なのにジェインはあまりそのことに触れたくはなさそうだ。

「私は小学生だったわ」
どんなに背伸びしても、
小学生は大学生と同じ時間を共有することは出来ない。
いくら追っても、けっして追いつかない悔しさが、リョウの中に甦った。

「その頃、私も大学生だったらよかったのに。
大学生のジェインさんとシライさんに会いたかった」
リョウの空になったグラスと自分のグラスと、
ジェインは器用に片手に二つのグラスを持ち、両方をシャンパンで満たした。

「ジェインさんご存知ですよね、兄のこと。
私は兄が好きでした。兄はいつも言っていた。
リョウはだんだん僕に追いつくんだよって。
だから私、小さい頃は信じていたんです。兄は待っていてくれる、
今はこんなに離れているけれど、でもいつか同じ歳になるって……」 
それで私、ユウにいと結婚するんだって……。

胸に、何処から湧いてきたのかわからない哀しみがせりあがる。
それを液体に溶け込ませるために、急いで残りのシャンパンを喉に流し込む。
「小学生になったあの頃、少し疑い始めました。
もしかしたら、ずっと私は追いつけないのかもしれないと」

あれは兄の誕生日だった。
たくさんローソクが乗ったケーキ、
そのローソクが毎年増えていくことを、初めて知ったあの日。
それなのにもうすぐ、リョウはあの兄の歳に追いついてしまう。
そして、追い越してしまう。

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