ある晴れた日に、永遠が見える… 8

posted in: ある晴れた日に永遠が見える | 0 | 2013/7/25

aruhare_title_indx

 

 

<8>

※R描写有り

部屋に戻ると、カナはロベルトの母親マリアが持たせてくれた大きな紙袋をあけてみた。
オレキエッテという、耳の形をしたプーリア特産のパスタ、自家製の瓶詰めのトマトソース、
ソラマメのペースト、青草の色のオリーブオイル、大きな袋の、良い匂いがするアーモンドのクッキー。
そこにはカナが美味しいとほめた物が、ぎっしりと詰められていた。

夕食など食べたくないと思っていたのに、それらの食材を見ていると、
アンナのおおらかな、大地に根ざしたような生命力を思い出し、食欲が湧いてきた。

大鍋に水を張りコンロにかけ、冷蔵庫をあさる。
そういえばせっかくジャヌが作ってくれた飲み物も、ほんの一口飲んだだけで帰って来てしまった。
カナはハイネケンの缶を開け、そのまま口をつけて喉に流し込んだ。
乾いたのどを滑り落ちる苦味が心地よい。
ポテトチップをつまみながら、オレキエッテを鍋に投げ入れる。

冷蔵庫にあったのは野菜のオイル漬けと、茹でた蛸のパック詰め。それをあえて前菜にする。
もう一品、クラッカーにソラマメのペーストをのばし、テラスに運ぶ。
丸いテーブルと、椅子を二つ置けるだけのスペースしかない狭いテラスだが、ここはカナのとっておきの場所だった。

丘の斜面にあるアパートの部屋からは、アルノ川を挟んでフィレンツェの街が見渡せる。
このアパートは、眺めの良い部屋に住んでいると学生が自慢しているのを聞き、
彼が卒業するまで待つからと、大家に頼み込んで借りることができたものだ。

引っ越してからまだ間もないこともあって、この景色を見るたびに、
自分の引き当てた幸運に感謝の気持ちが湧き上がってくる。
テラスから眺める、傾いたとはいえまだ明るい、でも幾分柔らかくなった日差しに照らされた街は、
恋焦がれて帰ってきただけのことはある美しさだった。

ビールも、野菜も、蛸も、ソラマメも、美味しかった。
そのことが少し不思議だ。
本当なら今頃、暑さに熱せられた体を冷やす、冷たくて甘いアイスクリームを食べたあとのように、
自分が成し遂げたことに満足して、舌の上で溶けて消えてしまったものにさばさばと別れを告げているはずだった。

それが思いもかけない中途半端な結末となって、自分のおろかさを忘れるどころか、
何かの罠にかかってしまったような不安な気持ちを感じている。
それなのに、飲むものも食べるものも、なぜこれほど美味しいのか…

大量に茹で上がったオレキエッテにオリーブオイルをまぶし、トマトソースをかける。
あいにくパルミジャーノは切らしていたので、振りかけるチーズなしの、本当にシンプルな一品となった。
しかしそれは一口ほおばるだけで、弾力のある感触とパスタの襞にからんだソースが、
素朴で力強い太陽の恵みを感じさせてくれる。

見ると空は淡いスミレ色に染まり、道路に街灯がともり始めていた。
やがてライトアップされたポンテヴェッキオやサンタクローチェ教会のファサード、
ドゥオモの丸屋根やサンタマリアノヴェッラの尖塔が夜空に浮かび上がる。

ジャヌ… あなたは今どのあたりにいるのだろうか。
前に私を連れて行ってくれた、あの中華料理屋にいるのだろうか。

カナはこの、今見ている景色のどこかにジャヌがいるということに、喜びが湧き上がってくるのを感じた。
アンのことは考えなかった。
同時に、今まで味わったことのない想いに胸がしめつけられる。
あなたは今、なぜ私の傍らにいないのか。
なぜ私と一緒に、この景色を眺めていないのか…

ふとジャヌのカメラからだまって引き抜いてきたメモリーカードのことを思い出した。
バッグの底を覗くと、そこにはメモリーカードと一緒に、くしゃくしゃに丸まったメモが転がっている。

メモのしわを、ていねいに伸ばす。
あのときとっさにジャヌの手からメモを奪い取ったのは、
多分これが、彼から受け取る唯一のものだと思ったからだ。
カナはもう一度7枚のメモを読み、それを引き出しにしまった。

パソコンを立ち上げ、スロットルにカードを差し込む。
画面にフィレンツェの街が映し出された。
よく知っている広場と建物ばかりだったので、気軽な気持ちでカナは写真を眺めはじめたが、
すぐにそれらが、普通のスナップ写真とは明らかに違っているのに気付いた。

どれも観光客に人気の建物ばかりだったが、ジャヌの写真には建物と人間が、
どちらも等価の主役として写しだされている。
背景の街並みと役者の演技でひとつのドラマを描き出す舞台のように、
どの場面にも、重なり合い絡み合うストーリーがあった。

早朝なのか、赤っぽい、斜めから射す光に照らされたサン・マルコ修道院、
バロックにしては比較的シンプルなファサードの前には、
新聞を手に立ち止まって話し込んでいる初老の男が二人。
真っ白な髪の老女は、杖に体を預けるように広場を横切っている。
その老女とすれ違っているのは、スーツ姿の若い父親。
彼が父親とわかるのは、あどけない子供が乗ったベビーカーを押しているから。
きっと出勤前に保育園に子供を預けに行くのだろう。
まだ観光客も物売りも出てきてはいない。

次の写真はアルノ川にかかる橋だ。
橋の欄干に一組の恋人が座り、抱き合って唇を重ねている。
しかし彼らの姿はぼやけており、主役はあくまで背後にくっきりと輝く、濃いクリーム色のポンテ・ヴェッキオだ。
その上に広がるのは澄んだトスカーナの空の青。
目を凝らしてみると、そのポンテヴェッキオの真ん中の建物が切れた部分でも、一組の男女が抱き合っている。

ドゥオモ前の広場では、客を待つ馬車の馬が退屈そうにレンズを覗き込み、
遠景には観光客の群が映し出されている。
彼らが見上げているのは、サン・ジョバンニ洗礼堂のギベルティの金色の扉。
だが扉そのものは画面には見えていない。

ジャヌの大事な写真を、私は持ってきてしまった…
自分が写されているだけだと思い、とっさにカードを引き抜いてバッグに入れてしまったことが悔やまれた。

ジャヌに電話をしようと受話器を取り上げる。
だが彼の携帯の番号を、カナは知らない。
食事に行くと言っていたから、研究室にはいないだろう。
ひとつだけ連絡をとる方法があった。アンの携帯にかければいいのだ。
だがそれはしたくなかった。

パソコンの画面ではスライドショーで、写真が次々に映し出されている。
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会、レップブリカ広場、オルサンミケーレ、
ウフィッツィ美術館の裏手のホテル、シニョーリア広場…

そして突然、一人の女が現れた。

僕が欲しい?
ええ…
足を開いて…
シャッターを切る音が耳に蘇る。
きれいだ、カナ、さあ… ジャヌの低い声も。

     ベッドに横たわっているのは、ジャヌだった。
     彼の裸身を覆うものはなにもない。
     カナは彼の滑らかな肌を思う存分味わっている。
     唇でも、指でも。

     硬く引き締まった胸、腹部、腰、背中、足、腕、肩、そしてのどぼとけとくるぶし…
     それから彼の下腹部の、カナを欲しいと主張しているその部分に、手を伸ばす。
     しかしなぜか、いくら手を差し伸べても指はどこにも届かない。
     なにものにも触れることができない。

     これが欲しいの?
     ジャヌの声が頭のなかに響く。
     
     そうよ、それが欲しいわ。
     君が欲しいものを与えてくれるのは僕じゃない、彼だよ。
     ジャヌのからだがぼやけていく。
     待って…

     カナはベッドに起き上がり、叫んだ。
     いや叫んだつもりなのに、唇は縫い合わされたように動かない。

     背後に男がいた。
     誰なの?
     ジャヌ、なの?

     後ろから男の腕に羽交い絞めにされ、
     胸をまさぐられる。
     男の指に固くとがった乳首を強くつまみあげられると、カナの体に戦慄が走った。
     それに気づいた男が笑い声をあげた。
     その声に聞き覚えはない。
     
     君が欲しいものをあげるよ。
     男の指が下腹部に降り、差し入れられ、愛撫を加えられ…
     カナは欲しがっていた。
     けれども頭の中で、違う、私が欲しいのはこれじゃないと、叫ぶ声がある。

     いきなり、背後の男がカナをつらぬく。
     どう?これだろう?
     君が欲しかったのは…

     違うとカナは頭を振った。
     違う!
     そのとき見開いた目が、正面にいるジャヌを捉えた。
     カメラを構え、カナを撮ろうとしている。

     カナ、何が欲しいの?
     言ってみて。

     これだろう?
     背後の男がカナの中で動く。
     カナは違うと何度も首を横に振る。
 
     ジャヌが近づき、カメラを手にした腕を下げると、
     カナの開かれた足のあいだに顔を寄せる。
     concetto spaziale 空間概念… 僕を誘う甘い闇…
     やわらかな舌を感じて、カナは叫んだ…

     ジャヌ! 

 

閉ざされた喉を引きはがすように、声がもれ出た。

自分の叫び声に驚き、カナは目覚めた。
ぐっしょりと汗をかいている。
全身に残るのはけだるい倦怠。

部屋は真っ暗だ。
ベッドには見知らぬ男も、ジャヌもいない。
ただ唇を縫い合わされて言葉を発することのできなかったもどかしさだけが、
甘美な恐怖としびれるような欲望をくるんでいた。

熱いシャワーを浴びる。もう眠れそうもなかった。
ベランダに出てみると、そろそろ空のふちが淡い藍色に変わろうとしている。
建物を照らすライトは、闇が薄れるのに反比例してしだいに光の強さを失い、
街は間違って早めに照明を当てられた、スクリーンの上のぼやけたラストシーンのように見えた。

コメントする