ある晴れた日に、永遠が見える… 2

posted in: ある晴れた日に永遠が見える | 0 | 2013/7/25

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出会いに予感めいたものは感じなかった。
ファビオにははっきりと感じた官能の予感を、ジャヌには感じなかったのだ。
思えば彼の視線は女を愛でるにしては強すぎた。それに反応してしまったのが不思議なほどに。
むしろ向けてくる視線も、あからさまにそれをはずしたことも、無礼と感じるほうが普通だろう。

しかしカナは、導かれるままにジャヌの研究室に入る。
前任の教授が使っていた部屋はすっきりと模様替えされていて、
重厚な石の壁は真っ白に塗りなおされ、
天井から下がっていたタバコの煙にくすんだシャンデリアも、モダンなデザインの照明に変っている。

部屋には余分なものがまったくなかった。
下の階の、本や資料があらゆるスペースを占領しているカナの研究室とは大違いだ。
きちんと整理された本棚、奥に大きな机、その上にはペン一本すらない。
この国では誰の机の上にもある、フレームの中で家族や恋人が笑っている写真立ても、もちろんない。
手前にはすわり心地のよさそうな、キャメルベージュの革張りのソファーセット、その脇にはドアがひとつ。

ジャヌがソファーの横のドアをあける。
そこはベッドルームだった。

これは… ?
カナの驚きを無視して、ジャヌが手を差し伸べる。
私を、誘っているの?
「からかわないで… 失礼するわ。」 イタリア男でもこんな誘い方はしない。ばかにするにもほどがある。
後ずさるカナを見て、ジャヌが笑い出した。

「ははは… 5分で、ここで僕があなたと?」 ひとしきり笑い、それでもまだおさまらないと肩を震わせている。
「どういうことですか?」
勘違いらしいとは分かったものの、彼の真意をはかりかねてカナは固い声でたずねた。
「困っているんです。彼女はあなたの友だちでしょう?」 笑いながらジャヌがベッドに顔を向ける。

覗き込んでみると、シーツの下にいるのはアン・イーだった。
カナと研究室を共有しているアンは、はじけるような明るさで学生や研究生の人気者だ。
たったひとつ欠点があるとすれば惚れっぽいこと、
そして一度彼女が誰かに惚れると、前後の見境なく相手を追い回すこと。
ということは、アンは早くもジャヌというこの男を手に入れたのだろうか。

「ええ、同僚です。このことは誰にもしゃべりませんからご安心を。
で、私にどうしろと?」
「ははは・・・・。」 説明もせずにまだ笑っている男に、苛立ちがつのる。
「なにがおかしいんですか?」
「なにがって… なんだかこの状況、おかしくありませんか。」

「ちっとも。
何を考えてのことか知らないけれど、おかしいどころか不愉快だわ。」
「まあ、そう言わずに。実は彼女、昼過ぎから居座っているんです。
おまけにキャビネットの酒を全て空けたみたいで。
あなたなら彼女をここから連れ出してもらえるんじゃないかと思って。」
「えっ?」
「つまり、その…あなたが彼女の友人ならなんとかしてもらえるかと…
できればそろそろお引取りいただきたいので。」

それで、なのか…
私を見つめていたのは、アンから私のことを聞いていたから。
そしてアンを連れ出すことを考えて…

急速に、カナの体の奥の熱が冷えていく。
強い視線を自分に対する関心だと思い込んでいたのが愚かしかった。
ある種の抗いがたい力を感じさせたこの男を、その瞬間カナは憎んだ。

つかつかと部屋に入り、シーツの下のアンに声をかける。
「ちょっと、アン、起きなさい。」
「いやぁよ、 ジャヌったら意地悪しないでよ。」 そういながらアンの腕がカナの首に伸びてくる。
「ジャヌったら、ねぇ、もう一度…」
「アン、私よ、カナよ。」
カナはその腕を振り解き、なんとかアンに服を着せた。

「あなた、自分のせいなのよ。つったってないでなんとかするべきじゃない?」
「ああ、そうでした。」
ジャヌは悪びれもせずアンを抱きかかえる。
「しかしいったいどこへ運べばいいのかな?
あなたは彼女の家、知ってますか?」

「それは…」 知ってはいたが、ジャヌが彼女を送っていくのはまずい。
パオロと鉢合わせになったときのことは、考えるだけでも寒気がする。

「知ってるけど、うるさい家族と同居してるからあなたは行かないほうがいいわ。
悪いけれど下の研究室に運んでもらえるかしら。
私から彼女の家に電話して迎えに来てもらうように頼むから。」

そういうことならとジャヌはアンを抱きかかえたまま3階まで運び、部屋の片隅のソファーにおろした。
パオロに電話をかけるとすぐに来るという。

「ご苦労様。もういいわ。」
「なにがですか?」
「なにがって、あなたはここにいないほうがいいの。部屋に帰るなり家に戻るなりしていいってことよ。」
「それはありがたい。」
そういいながらもジャヌは動こうとしない。
部屋の中を見回し、テーブルの上に散乱している本やデッサンを、手に取って眺めたりしている。

「どうです? 一緒に夕食でも食べに行きませんか?」
「アンを一人にして?」
「彼女は酔ってはいるけれど病気ではない。」 

「あなた、ひどくない?女を連れ込んどいて、こんなに簡単にほっぽり出すの?
もう少しやさしくしてあげたら?
なんだったらもう一度抱いてあげるべきじゃない?」
うるさい家族と鉢合わせしないほうがいいと言ったことを棚にあげて、カナはからんだ。

「僕がいつどこでどう女を抱くか、あなたに指図されることじゃない。」
その通りだった。言い過ぎたと、カナは謝った。
「とにかく腹が減るといらいらしてくる。さあ、行きましょう。」

そう言われるとカナは急に空腹を覚えた。
アンはパオロという嫉妬深い恋人と暮らしながら、しょっちゅう他の男を追い掛け回している。
さんざん後始末に振り回されてきたカナは、これがたいしたことではないと、はなからわかってもいた。
なにより今夜は、二人がののしりあうのを聞くのも、彼らの間に入ってもみくちゃになるのも、ごめんだった。
あとのことは守衛に頼んで、カナはジャヌに付き合うことにした。

「アンから私のこと聞いていたのね?」
「ああ、少しね。」
「なんて言ってた?」
「親友に美人の日本人がいるって。」
「うそよ。彼女がそんなこと言うわけないわ。
困ったときに自分を助けてくれるお人よしの日本人がいる、違うかしら?」

「違います。怒っているからって、友達のことそんなふうに言うのは良くないな。」
「あら、怒っているってわかった?」
「だから食事に誘ったんです。」

知り合ったばかりだというのに、社交辞令やおざなりの質問をとばして、
二人はいきなりずけずけと言葉を交わしていた。
そのことを少しも奇異に思わないいことに、腹を立てているカナは気付かない。

大学からドゥオモ(大聖堂)に向かって歩きながら、目ぼしいレストランを物色して歩く。
しかしこの時間ではまだどの店も開いていない。
かといってバールなんかで中途半端に食べるのはいやだと言うカナを、
ジャヌは駅近くの中華料理店へ連れて行った。
細い裏通りにある間口の狭い店は、入ってみると驚くほど奥が広い。
イタリアの夕食にはまだ時間が早いためか、店内はがらんとしている。

カナは、ギョーザや野菜炒め、スープや焼きビーフンなどをこれでもかと注文した。
テーブルに料理が並ぶと、ジャヌがボナぺティート(たくさん召し上がれ)と言う。
優しいい微笑と共に言われたその言葉が、何故かカナの心をかき乱す。
ビールを飲みながら食べ、グラスが空になると紹興酒に変え、ひたすら食べ続ける。

「すごいな。」 食べ続けるカナを楽しそうにみつめ、ジャヌが言う。
「なにが?」
「食べっぷりが良くて気持ちがいい…」
「それは誉め言葉よね。ありがとう。」
「また怒らせた?」
「いいえ、ごちそうさま。」

あらかた料理をかたずけてしまうと、カナは急に手持ち無沙汰な気持ちになった。
聞きたいのはアンのことだけだったが、それは口にしたくない。
「ところで、なんでバカンスなのに学校に?」
結局カナはそんな質問しかできなかった。

「この時期うるさい学生はいないし、快適な研究室で好きなだけ調べ物ができるから。
あなたは?」
「私も同じようなものね。ずっと学生の課題の手伝いばかりしていたから、
久しぶりに自分の好きなものを作りたくなって…」
「専門はファッションデザイン?」
「いいえ、モード論よ。でも作るのも好きなの。テキスタイルから考えて何か一点作ろうかと思って。」 

「研究のテーマは?」
「モードにおける肉体の消滅。」
「どういう内容なの?」 
「何故私は化粧をするのか、何故ブラジャーをして胸を大きく見せようとするのか、
何故あなたはジムに通って体を鍛えるのか…」
「そそられる内容だね。もう少し説明してくれる?」 

「いいけど、できれば酔ってないときにしたいわ。」
「じゃ今度研究室に遊びに行っていいかな。」
デザインも見せて欲しいといわれ、いつでもどうぞと答えると、もうカナに話すことはなかった。

短い沈黙の後、唐突にジャヌが話題を変えた。
「実はエレベーターであなたを見て、どうやらアンが話していた友人らしいと。」
「それで?」
「彼女、着ている物を全部脱ぎ捨てていて。その…僕が着せるよりあなたに頼んだほうがいいかと…」
「抱いた女に服を着せるのになんの遠慮があるのよ。」
その言葉にジャヌの表情が固くなった。
「どうやらあなたは、この一年ですっかりイタリア人になったようですね。」

「何を言いたいの?それに何故一年ってことまで…」
「いや、別に。ただイタリア人は目に見えることしか信じないと、何かで読んだから…」 
ジャヌは二つ目の質問には答えなかった。

「そうよ、私は目に入ったものはそのままに受け止める女よ。」 カナは反射的に切り替えしていた。
回りくどいいいわけだと、どこかで軽蔑する気持ちもあった。
「でもジャヌさん、あなたって無礼な人だと思ってたけど、それは間違っていなかったみたい。」 
「無礼とは?」
「よく知りもしないのにひとのことを決め付けること、
連れ込んだ女をモノにしたとたんつれない素振りになること、それから…。」

「それから?」
あの強い視線は何?なぜ私をあんなふうに見たの?
しかしその疑問は口に出せない。それを言えば私だって…。
カナは自分をもてあまし、なんでもないと酒をあおった。

「無礼な男はきらいですか?」 ジャヌは引き下がるつもりはないようだ。
「ええ、きらいよ。」
「ではどんな男が好き?」
「愛してると言わない男…」
ジャヌの怪訝な顔がおかしくてカナは笑い出し、笑いながら、昔夫に言ったことを思い出した。

あなたはすこしも愛していると言ってくれないと、
ファビオと同じセリフをカナは口にした。
そのセリフを夫に投げつけて、彼と暮らした家を出たのだ。

「なぜですか?」 黙り込んだカナを、ジャヌはしばらくみつめていたが、やがて低い声でたずねた。
「そうね、なんていうか…、あんまり言われすぎると、真実味がなくなる気がするの。」
「そんなに言われてたの?」
「ええ、チャオの代わりに言われてるみたいにね。」
ファビオのことを話そうとしている自分に驚き、あわてて話題を変える。

「ジャヌさん、あなたは?」
「僕?」
「あなたは愛しているとよく言うほう?それともあまり言わないほう?」
「さあ、あなたの基準で多いのか少ないのかはわからないな。」
「言ってみて。」
その言葉に、自分のグラスに注がれていたジャヌの視線がすっと上に動き、カナを見た。

私は酔っている、だからこんなばかなことを… 彼の目を見つめ返しながら、頭の片隅で思う。
しかし出てしまった言葉を元にもどすことはできない。
「あなたの言葉がチャオと同じに聞こえるかどうか、試してみたいの。
チャオと聞こえるのは彼のせいではなくて、私のせいなのかもしれない…」

ジャヌがテーブルの上のグラスを脇に片付け、両手を伸ばしてきた。
その手に、自分の手を預ける。
しっかりと手を握られ、カナは目を閉じた。

「愛しているよ、カナ。」 多少芝居がかってはいるが、戯れに言った言葉にしては暖かかった。
少なくともチャオとは聞こえない。
不覚にも泣きそうになったのをカナはなんとかこらえ、目を開けた。

ジャヌは包み込むようにカナを見つめていたが、やがてその視線がにやりとした笑いと共に崩れた。
「合格ですか?」
「いいえ。不合格よ。」 即座にカナは否定した。
苦々しい思いが広がっていく。いったい私は何をしているのかと。

確かにこの男は、顔立ちも、体つきも、アンが追い掛け回したくなる気持ちがわかるほどに美しい。
しかもそのことを自分でよく知っている。
溢れる自信が暖かな微笑をつくリ出し、女を誘うけれど、
でもきっと心のなかに重い扉があって、入ってきた女の前でその扉を閉ざすのだ。
女が扉の前で去りがたく立ちすくむのを見てこう言う…
さあ、よかったらその扉を開けてみて。ただし君に開けられたらねと。

カナは酔った頭で、あれこれ考えるのが面倒になってきた。
ファビオの事をこれ以上思い出すのもやりきれない。

いちばんいやなのは、こんなふうにさぐりあうことだと、心の中でつぶやく。
少しぐらいハンサムだからって、女にちやほやされて、自惚れて、いやなやつと。
ジャヌの視線に惹かれたことも、愛しているという言葉に泣きそうになったこともきれいさっぱり忘れて、
いや忘れたことにして、カナは心の中で毒づいた。
ふん、その手にはのらないわよ、この色男、と。

「なにをぶつぶつと?」
「それは… つまり… 
アンのことでもう私を煩わせないで欲しいってこと。私だってヒマじゃないんだから。」
とっさにそんな言葉が口を付いて出た。

「彼女、きっとあなたを追い回すでしょうけれど、あとはご自分でなんとかしてね。
いつかパオロって男が怒鳴り込んできても、私は一切関係ありませんから。
さて、もう帰るわ。一応頼みは聞いてあげたんだから、食事はごちそうになるわよ。」
カナは一気に言葉を吐き出すと、送っていきますというジャヌの声を背中に聞いて、さっさと店を出た。

アンは目を覚ましただろうか?
目覚めたのがジャヌの腕の中ではなく、そこがジャヌの寝室でもないことに気付いて、
怒りを爆発させているだろうか。
それともパオロとの修羅場を回避できたことに、安堵しているだろうか。

ねえ、もう一度…
アンの甘い声が甦る。

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