ある晴れた日に、永遠が見える… 16

posted in: ある晴れた日に永遠が見える | 0 | 2013/7/25

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翌日、カナはジャヌを買いものに誘った。
すでにバーゲンが始まっていたので少し心配だったが、
幸い欲しかったものはまだ残っていた。
アイスグレーのシンプルなシャツワンピースを、以前の半分の値段で、カナは買った。

ジャヌが何かプレゼントしたいと言うので、さらにあちこちのウィンドーをのぞく。
何軒目かのブティックで、カナはやわらかなシフォンの膝丈のドレスに目をとめた。
布地に描かれた、おさえたピンクや赤、ワインレッドなどの流麗な線に惹かれたのだ。
近づいてよく見ると、それは様々な赤の色調の水の流れに、
シンボリックにかたどられた花が浮かんでいる模様だった。

大胆なホルターネックに少しためう。
しかしジャヌが、試着室の鏡の中のむき出しのカナの背中を見て目を細めたので、
思い切ってそれに決めた。
ドレスに合わせて赤のサンダルも買い求める。

買い物が済むと、二人はあてどなく街を歩き回った。
ただ、歩きたかった。手をつないで。
息づく街を、人の群れにまぎれて。
ドゥオーモ広場からローマ通りを下り、レップブリカ広場に出る。

広場の片隅では、波打つ赤毛を白いヘルメットからのぞかせた婦人警官が、
同僚の男性と何やら話しこんでいた。
スリやかっぱらいを警戒しているのだろう、話しながらも、サングラスごしに視線を人ごみに泳がせている。
その姿に見とれて、カナは立ち止まった。
するとそこから、一歩も動けなくなった。

ジャヌが数歩後ろに下がったのにも気づかず、
婦人警官の姿を見つめ続ける…

背後からカシャ、カシャとシャッターの音が響き、カナは我にかえった。
振り向きざまにカシャリともう一度、ジャヌが写真を撮る。
「いやだ、変なところ撮らないでよ。」
「なんだかドラマが起こりそうな構図だったから。」
「あまりにカッコよかったから、つい…」
カメラのモニターには婦人警官と、その婦人警官を凝視しているカナが、何枚か切り取られていた。

広場に面したバールで喉を潤した後、二人はトルナブオニ通りからサンタ・トリニタ橋を渡る。
ジャヌの写真の、恋人たちが欄干に座り唇を重ねていた橋だ…
写真の背景となっていたポンテヴェッキオを、しばらく眺める。
続いて反対側の、オレンジ色の陽射しに建物が水面に美しく影を落とす、アルノ川の上流を眺める。

「きれいね…」
「ああ、今日は何もかもが美しい…」
「きっと夕食も美味しいわ。」
今夜は橋を越えた先の、トスカーナ料理が評判のトラットリアに予約を入れてあった。

「まだ少し時間がある。
よかったらサンタ・マリア・デル・カルミネ教会まで足を伸ばさないか?」
突然思いついたように、ジャヌがカナを誘った。

教会の入り口は、目立たない、ひと気のない広場に面していた。
建物は黄土色の石に覆われて、まるで古びた倉庫のようだ。
だがここには、フィレンツェのルネッサンスが大きく花開いていく、最初の一歩が記されている。
18世紀の火災で焼け残ったブランカッチ礼拝堂の壁を飾る、マザッチョのフレスコ画だ。

コの字型に奥まった小さな礼拝堂の天井と、正面の祭壇の両脇、そして左右の壁面に、
隙間なく聖書の物語が描かれている。
二人は教会の身廊部分に置かれた椅子に、
壁画の左側の壁が良く見える位置を選んで、腰を下ろした。
その壁面のうちの三枚と正面の二枚が、マザッチョの作品だった。

「マザッチョを、君とゆっくり見たかった…」
他の見学者のじゃまにならないようにと、ジャヌが低い声でささやきかける。
「僕がなぜ、研究のためにフィレンツェを選んだのかわかるかい?」
「街のサイズ… だけじゃないのね。」
「実はこの絵があるからなんだ。」
ジャヌは自分が一番大事にしている場所に、カナを連れてきたのだ。

「初めてここに来て、ペテロの物語を見たときのことを思い出すよ。
僕は大学を出たばかりで、貧乏旅行の途中だった。
それまで、イタリアの都市に魅せられてあちこちを歩きながら、
何が僕をこれほど魅了するのかを捉えきれずにいたんだ。
ミケランジェロ広場からずっと街を眺めても、
ドゥオーモの前の石段に一日中座って道行く人を見ていても、わからなかった。
それがマザッチョの絵をみたとたんにわかった。」

「何が、わかったの?」
「イタリアの都市がなぜ演劇的な空間として育ってきたのかが、わかったんだ。
そして僕を魅了するのは、その演劇性だとういうことを、はっきりと自覚した。」
「確かにマザッチョの遠近法と人物表現が物語を生き生きとさせている…
でもなぜそれが都市の演劇性に繋がるのかしら?」

ジャヌは顔を一層明るく輝かせ、ごらんと左側の壁面上部の、『貢の銭』を指差した。

「正面ではイエスが収税人に税を要求されて、それを得る方法をペテロに指示している。
画面の左には湖で魚を採ってきたペテロが描かれている。
ペテロはイエスの言葉の通り、魚の口から銀貨を見つけたところだ。
右側ではペテロが収税人にその銀貨を渡している。」

「ええ。とてもシンプルで、そして説得力がある…」
「僕はキリスト教ほど、その教えを広めるのに視覚的な力を最大限に利用した宗教はなかったと思っている。」
カナは黙って、ジャヌの言葉に聞き入った。

「中世には絵画は、崇拝の対象としてのイエスやマリアの像を描く手段だった。
だがしだいに、絵画は聖書の物語を、民衆によりリアルに伝える役割を持つようになった。
その物語は、すぐ目の前で繰り広げられている。
『貢の銭』の右端に描かれている建物は、さっき僕たちが歩いてきた街並みの中の、
どこかの屋敷の軒先のように見える。
きっと当時の人には、この絵は街から連続的に繋がっているひとつの場面のように見えただろう。」

確かに遠近法で描かれた建物はルネッサンスのものだ。
また『貢の銭』の下の絵の、フィリッピーノ・リッピの手が入った部分では、
纏っている衣服は完全に同時代のものだった。

「ではこの演劇性は、宗教者が聖書の教えを広めるのに都合が良いと、利用しているだけだろうか?」
「違うわ。人々が求めたのよ。」 即座にカナは答えた。

「その通りだ。人々が宗教に演劇性を求めた。
宗教的な教えも、人間のドラマと捉えたんだ。
何より、イタリアの街には演劇的な舞台がある。
どの街にも必ずある大聖堂、その前の広場、そこに向かう求心力を持った道、階段…
人々の視線を集める仕掛けは何百年もの時間をかけて作りあげられ、洗練されてきた。
役者の演技にも磨きがかからないわけがない。
舞台としての都市があり、演じることの快楽、見ることと、見られることの快楽を、知り尽くした人々がいる。
宗教も絵画もそのことを利用し、いや忠実にたどり、そしていっそう強固にする役割を果たした…」

ジャヌの高揚が、カナにも乗り移ってくるようだった。
「すごいわ、ジャヌ…
宗教と芸術と、そして日常的な暮らしが、演劇性という軸を中心にフィードバックしあい、深め合っている…」 
ジャヌが嬉しそうに、カナの肩を抱き寄せた。

もう一度端から端まで、カナはその絵を見つめた。
背景の荒涼とした風景とは対照的な、修復されて甦った、人々の衣服のやさしい色が目に心地よかった。

だがその左隣にある、『貢の銭』の四分の一ほどの大きさのフレスコ画が、
カナの視界の片隅に居座っている。
いつもこの礼拝堂に来るたびに、ひときわ強くカナを捉える絵だ。
あの絵の中のドラマにも、その快楽はあるのだろうか…

そこには楽園を追放されたアダムとイブが描かれていた。
剣を持つ天使に追い立てられ、アダムはたよりない一歩を踏み出したところで、
両手に顔を埋め、むき出しの性器を無防備に曝している。
イブは悲しみに歪む面を天に向け、右手で胸を覆い、左手は下腹部を隠すように下ろしている。

「カナ… 」 ジャヌの腕がそっとカナの肩をゆすぶった。
「ああ、ごめんなさい。ぼんやりしてしまって。
この『楽園追放』を見ると、いつもあれこれ考えてしまうの。」

「罪と罰について?」
「いいえ。
罰という概念は、日々の暮らしに降りかかる苦痛を耐えやすくするものでしかない。
私はクリスチャンじゃないし、原罪という考えにも
それをそそのかす役割を女に負わせたことにも、すんなりと肯くことはできないの。」

ジャヌが黙って、先をうながした。
「私がいつも考えるのは、欲望と快楽について。
楽園を追われ、犯した罪を恥じ、嘆き悲しむアダムとイブにとって、快楽は永遠に奪われたように見える。 
それなら右側の、まだ楽園にいるアダムとイブに快楽はあるのか…」

マザッチョの絵と向かい合う壁面には、マゾリーニによって楽園のアダムとイブが描かれていた。
のびやかな裸身をさらす男と女はまるでギリシャ彫刻のように動きが止まり、感情の動きも伺えない。
イブの左手は知恵の木にからみつき、二人の頭上には女の顔を持つ蛇が、鎌首を伸ばしている。

「そう言われると… 
そもそも楽園での二人は相手を他者として認識していたのか…
他者と求め合い、与え合う快楽を知っていただろうかと、疑問に思えてくる。」
「神のつくりものとして、閉ざされた楽園で自足していれば、
あらためて快楽など求める必要はなかったんじゃない?」

「なるほど…楽園にあるのは快だけだから、求めるまでもなく既に与えられている…
ということは欲望もなく、その欲望が満たされる喜びも、楽園にはなかった。
快楽は、楽園を追放されて生まれ出たのかもしれない…」

「ええ、神が与えた罰である労働も出産も、苦しみであると同時に、喜びでもある。
快楽は苦痛とセットになって生まれたのよ。楽園を追われたときに…」

渇望の苦しみ、求めても得られなかったときの失望、
手にしたものが次の瞬間には失われていく悲哀。
だが如何にはかない夢だろうと、つかのまの幻影であろうと、
欲望を満たしあう一瞬の喜びのために、人は生きるのだ。

「私、神が課したものがあるとすれば、それは罰ではない、欠落なんだと思うの。」
「欠落は絶望ではない。欠落こそが希望なんだ…」 
ジャヌが低く、ゆるぎない強さを込めてつぶやいた。

   ***   ***   ***

「ねえ、ジャヌ。お願いがあるの。」
フィレンツェ名物のキアナ牛にオリーブオイルと岩塩をすり込み、
炭火で香ばしく焼いた肉を前に、カナは切り出した。

「なんなりと、王女。」
「ちがうの。あなた今度は絶対奴隷になっちゃだめなのよ。やってくれるかしら。」
「もちろんさ。今まで僕の演技が君を失望させたことはなかっただろう?
どんな役でもきっと君を満足させれると思うよ。」

「そうね、あなたならできる。
明日、私の部屋に一緒に帰って欲しいの。」
ジャヌの表情が引き締まった。

「カナ、本当にもう大丈夫?」
「わからないけど、少なくともフラッシュバックはおさまったわ。
それに、あの部屋、せっかく手に入れたお気に入りの部屋なのよ。
失いたくない…」 
あんなことのためにと、カナは胸のうちで続けた。

「で、僕の役割は?」
「約束を果たしてくれればいいの。」
「なんの約束?」
「明日あの部屋で、私を襲ってちょうだい…」

 

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