ある晴れた日に、永遠が見える… 10

posted in: ある晴れた日に永遠が見える | 0 | 2013/7/25

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眠りの闇の中に電話のベルが鳴る。
何回か鳴り響いた末に、あきらめてベルは止む。
それがしばらく時間をおいて繰り返される。

次にすぐ近くで、携帯電話のベルが鳴る。
そのベルも同じように繰り返し鳴り響く。
何度目かにようやくカナはベッドの下にころがっている携帯に腕をのばした。
それを拾い上げるのには、全身に走る痛みをこらえなければならなかった。
電話はファビオからだったので、即座に電源をオフにする。

あれからどれくらい眠ったのだろうか。
夕暮れには程遠い光が部屋に差し込んでいる。
ほんの数時間しか経っていないのか。それともすでに翌日になってしまったのだろうか。

体を動かすのがつらかった。
その中心に、自分という女の核に打ち込まれた鉛の弾のように、いちだんと鋭い痛みがある。
カナはなるべく動かないように、息を殺してベッドに横たわっているしかなかった。

誰かに助けを求める気持ちにはならなかった。
今までだったらまっさきにアンを頼ったに違いないのに、今アンは遠かった。
となるとロベルトしかいない。
だが彼もまた、遥か離れた南の地にいるのだ。

またうとうととまどろんだ。
なにやらぼんやりとした、まるでつかみどころのない夢が、繰り返しカナを襲う。
意識が戻ると強まる痛みは、夢の中でも鈍くカナを苛んだ。
そうだ、痛み止めを、痛み止めを飲めばいいんだ…

そこにいるのは誰?
お願い、私に薬を…

「お願い…」
「カナ! カナ… ああ、カナ… 」 それはベッドの傍らで、心配そうにカナを覗き込んでいるアンだった。

「アン、なの?」 アンはベッドにかがみ込み、カナの手をとった。
「そうよ、私よ。
こんなひどい、ファビオったら、なんてひどいことを…」

「アン、ちょっと待って、今なんて言ったの?」 
なぜファビオのことをアンが?
カナは体を起こそうとしたが、痛みのために体が動かず、出てくるのはうめき声だけだった。

「だめよ、動いちゃだめ。」
そのとき、部屋の隅で影が揺れた。ジャヌだった。
カナはあわててシーツを首元まで引き上げる。
「なんでジャヌまでいるの?」

「パオロもいるわ。
私たち、ファビオから電話をもらったとき、ちょうど研究室で一緒だったの。
だからおどろいて…」
「ファビオが電話を?」

「ええ、そうよ。カナにとんでもないことをしてしまったって。
何度電話しても出ないって。彼泣きながら電話してきたの。
カナを傷つけた、彼女は怪我をしてる、
でも僕はもう二度とカナには顔を会わせられない、だからカナを頼むって。」

「そう… そうだったの。
アン、私だったらそんなたいしたことないわ。大丈夫だから。
机の一番上の引き出しにある鎮痛剤をとってくれる?
それだけでいいの。そしたら三人とも帰って。」

ジャヌが、引き出しをあけた。
一瞬その手が止まり、中のものを見つめていたが、すぐに薬を取り出すとベッドの傍らにやってきた。
かがみ込むようにしてカナを見る。
その瞳の中に、思いがけないほど強い苦痛の色があった。

カナはジャヌに渡された薬を飲み、またシーツに潜り込む。
アンが乱れた髪を静かになでつけてくれる。
その手が暖かかった。

しばらくすると薬が効いてきたのか、少し痛みが薄れてきた。
「三人とも、お願いだから、もう帰って。
私を一人にして。」

「まだそんなことを!」 
それまでひと言もしゃべらずにいたジャヌが、初めて口を開いた。
その声には怒りが込められている。
「カナ、少し落ち着いたみたいだから、病院に行こう。」
「大丈夫よ、大げさにしないで。だいぶ楽になってきたわ。」
「だめだ。君が動けないなら救急車を呼ぶ。」

そう言うと本当にジャヌは自分の電話を取り出し、ダイヤルしようとしている。
「ジャヌ、やめて。わかったわ。わかったから…」
「カナ、そうよ。病院に行こう。私たち一緒に行くから、ね、そうしよう。」

アンに手伝ってもらって、なんとか服を着た。
部屋の外に出ていたジャヌがまっすぐにベッドにやってくると、軽々とカナを抱きかかえる。

「病院で警察を呼んでもらおう。」
パオロが運転する車の中で、ジャヌが強い口調で言った。
「やめて、そんなことしないで。」
「カナ、これは… これは…傷害事件だ。」 
レイプ、という言葉をジャヌが飲み込んだのが、カナにはわかった。

病院でも警察に連絡するかと訊ねられ、カナは即座にそれを断った。
「恋人との別れ話がこじれて、ついこんなことに。
私も悪かったんです。彼を逆上させるようなことを…」

「それにしても相当激しく抵抗したんですね。
普通恋人だったら、これほどのことにはならないはずだ…」

医者は解せないという顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
「幸い骨折もしておらず、妊娠の可能性もない。
打撲と裂傷で全治一週間から10日といったところでしょう。」
痛み止めと抗生剤、湿布、塗り薬に加えて、精神安定剤と睡眠薬が処方された。
カウンセリングもすすめられたが、予約がとれるのはバカンス明けとのことだった。

また三人に送り届けられ、カナは自分の部屋のベッドに戻った。
本当にもう大丈夫だ、頼むから帰ってくれと言うのに、三人ともカナの言葉に耳をかさない。
カナを一人にしないと決めているようだ。

ジャヌが風呂の準備をすると部屋を出て行きかけたとき、ベッドの傍らのアンがふとカナに尋ねた。
「そういえばファビオ、あんたの写真を見てわけがわからなくなったって言ったけど、何の写真?」
アンの言葉に、ドアのノブに手をかけていたジャヌが立ちすくむ。
その背中が硬直した。
ゆっくりと振り向き、カナを見る。

カナはジャヌの見開かれた目を力なくみつめていたが、
突然、あのときから今まで、パソコンの電源を落とていないことに気付いた。
画面は私の写真のままだ。何かの拍子にモニターがオンになったら…

「ジャヌ、お願いがあるの。」
彼が近づいてこようとするのをカナは手で制した。
「そのコンセントを、抜いて頂戴。」
それがパソコンの電源だと見て取ると、カナの言わんとしていることをジャヌは即座に理解した。
アンが何か口を開こうとする前に、引きちぎるように、コンセントを引き抜く。
引き抜いたコンセントと、パソコンと、カナの顔を交互に見比べるジャヌの表情が、やり切れない悲しみに覆われていった。

風呂の準備が整うと、ジャヌはパオロと買い物に出かけた。
食料を仕入れ、夕食を作ってくれると言う。

アンに手伝ってもらって風呂につかり、またベッドに戻って、カナは心に巣くっていた疑問を口にした。
「ねえ、アン。パオロと別れたんじゃなかったの?」
「カナ、ごめんね。」
「うそ、だったの?」
「私、別れたなんてひと言も言わなかったよ。」
「だってもう恋人じゃないって…」

「彼はもうragazzo(恋人)じゃない、e’ diventato il mio fidanzato…」
「なんですって?」 カナは耳を疑った。それは思いもしない言葉だった。
エ ディヴェンタート イル ミオ フィダンザート 彼は私の婚約者になったのよ…

「どうして?
あのとき、私が勘違いしてるってわかって、どうして否定しなかったの?」
「ちょっとからかおうと思ったのよ。
そしたらカナったら、あまりに簡単に私とパオロが別れたって信じるんだもん。」
「それだけ?」
「えっ?」
「それだけじゃないでしょう?」 カナは怒りにかられ声を荒げた。

「カナ、そんなに怒らないでよ。私見事にジャヌに振られたんで、悔しかったの。」
「だって、あんたジャヌのベッドで…」
「あのとき、研究室で言い寄ったのに相手にされなくて。それでお酒を全部飲んだの。
酔いつぶれた私をジャヌがベッドに運んでくれたとき、かじりついてキスしてやったわ。それから裸になって… 
でもそのあとは指一本触れてもらえなかった…
それなのにジャヌったら毎日研究室にきて、あんたのことばかり訊いてくるし、あんなメモまで貼って…」
「だからって… アン、あんたってそんなにひどい女だったの!」

なぜこんなときに、こんなタイミングで、真実を知らされなければならないのか…
しかし、ごめん、悪かった…と本当にすまなそうにうつむいているアンを見ていると、
怒りはやがて自分に向けられ、最後にそれは自嘲に変わった。

私ったら、間違ったシナリオを手にしているとも知らずに…
アンには確かに小さな憎しみがあったのだろう、ジャヌに対して、私に対して。
でもそれも、私が描いたつき並みなストーリーがあってのことだ。
ジャヌに言われたように、目に見えるものだけで勝手に描いた…
それにどのみち、このぶざまな結末を変えることはできない。

「アン、もういいわ。」
「許してくれる?」
「ええ、今更何言っても仕方ないし。」

肩を落として沈んだ表情になってしまったカナを見て、なんとか気を引き立てようとしてか、アンが言った。
「カナ、今日なぜ私たち三人が一緒にいたか、おかしいって思わなかった?
今までだったら私が追い回した男をパオロがほっておくはずないのに…」

「ええ、思ったわ。なぜなんだろうって。
あんたをめぐって決闘でもするところかと思ったわ。」 
カナらしい答えが返ってきたので、アンは嬉しそうに笑った。

「ああ、そうだったら素敵なのに…
でも現実は全然違う。
あんたがいなくなって、毎日のようにジャヌが研究室にくるでしょう?
私はなんとかものにしたいと迫ったわよ。
あるときそこにパオロがやってきた。どんなことになったか想像できる?」

わくわくするように輝きを増したアンの顔を、あきれたようにカナは眺めた。
「それで?」
「それがね、なんにも起こらずに、ジャヌとパオロは友達になっちゃった。」
「へー、それは予想外だわ。」
「ほら、もともとパオロって東洋にあこがれてたから。今はジャヌにすっかり心酔してる。
こんどテコンドーを習うんだって。」

「でもそんなにすぐに友達になるなんて信じられないわ。
あんたがジャヌと一緒にいるところにパオロがやってきて、よく血をみなかったわね。」
「ジャヌッたら、怒り狂っているパオロにいきなりこう言ったのよ。
しかも大笑いしながら。
僕がアンと? 冗談でしょうって。」

「それから?」 カナが身を乗り出したので、アンも力を得たように話し続ける。
「僕は、恋人の嫉妬を買うために、わざと別の男を追い回すような女には興味がないんだ…
どうしてそれほど愛されているのに君は気付かないのかな。
いや、気付かないからよけいアンがこうなる…」

「パオロはなんて?」
「目をぱちくりしてたわ。あのときの顔ったらなかった。」
「へー、驚いた。ジャヌ、よくずばりと言ってくれたわね。でも図星なんでしょう?」
「わかんない。」
「じゃなんで婚約したの?」

「だってパオロと結婚したいんだもの。
ずっとプロポーズ待ってたんだもの。」
「もう他の男は追い回さない?」
「それもわかんない。だけど少なくとも今はパオロで満足してるわ。
すごく情熱的に愛してくれるようになったのよ。」
そう言ってから、アンはあわてて口をつぐんだ。

カナの前ではセックスに関する話はするなと、医者に言われていたのだろう。
確かにそれは今カナが聞きたい話ではなかった。

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