『従軍慰安婦問題と日米関係、一つの提言 』 冷泉彰彦氏

posted in: 雑感NOTE | 0 | 2013/9/17

「慰安婦問題」についてのこの記事は、
日本の取るべき態度はまさにこれだ!と、深く頷けるものだ。
こういう視点がもっと語られるべきだし、
その意味で、もっともっと読まれるべき記事だと思う
が、ツイート11、FBおすすめ18 (9/17 14:00時点)。
従軍慰安婦問題と日米関係、一つの提言 (2013.8.10)

一方、産経ニュースの9/16付けの記事は、ツイート4,228、FB6,079。
・河野洋平氏を提訴へ 「国民運動」談話撤回求める署名も3万超

もう唖然とする内容で、いちいち論評する気にもならない
(リンクを張る気にもならない)。


河野洋平提訴って、そもそも個人としての発言ではないだろう、
というのもあるけれど、
この主張も産経の「慰安婦問題」に対する一貫した姿勢も、
私には常軌を逸しているとしか見えない。
一つだけ、はっきりと言えることは、
彼らが取り戻したがっている日本の威信は、
こういう行為によってますます貶められる、ということだ。

威信を失墜させたとする批判が、事実の捻じ曲げと論理矛盾、
さらに人権感覚の(世界標準との)大きなずれによって構築されているがゆえに、
更に威信を失墜させる行為となっているという自己矛盾。

本当に日本が尊敬に値する国になるために、
冷泉さんの提言を、胸に手を当てて、よーく考えてみようよ。

従軍慰安婦問題ですが、アメリカのいくつかの州議会で「非難決議」がされたり、慰安婦像や記念碑が建立されたりしているのは事実です。

こうした「決議」や「記念碑」という問題があってもアメリカの世論における対日感情が悪化しているということは「全くない」と言っていいと思います。

では、この問題に関しては、騒いでいるのは「韓国系の活動団体」とそれに反対する「日本の右派」だけであって、アメリカのメインストリームの世論に関しては「心配ない」と考えていいのでしょうか? 当面はそうだと思います。ですが、こうした問題提起が今後も続いて、それに対する日本の政界の反応が「間違って行く」ということが重なって、ある臨界点を超えるようですと問題になることもあり得ます。

「間違って行く」とは、たとえばあの橋下発言。
そして、産経の記事にあるような動きのことだ。
彼らには、何が問題で、どこが「臨界点」かがわかっていない。

では、何が問題であって、何が問題でないのでしょうか? この点に関しては、そんなに複雑な話ではありません。

アメリカの政府も世論も、かつての日本という存在は、真珠湾を攻撃してアメリカに挑戦してきただけでなく、その後3年半にわたる熾烈な戦いの期間を通じて明らかに「最も忌まわしい敵」であったということは記憶しています。ですが、それは「古い日本」であって、戦後の「新しい日本」というものは、アメリカにとっては最も近く、最も親しみのある友好国だというのが共通理解になっています。

その「悪しき古い日本」と「親しみのある新しい日本」というのは、アメリカの政府と世論においては驚くほど明確に区別されています。それは、戦後において、アメリカが日本を占領し支配する中で、日本を変えることに成功したという 「手前味噌」で言っているという面は驚くほど少なく、むしろ戦後の日本が振舞ってきた平和志向の行動パターンや、ソフトパワーのためだと思います。

アメリカの政府と世論にとっては、「古い日本」の悪い面が明らかになるということは別に驚くに値するわけではないし、それによって「現在の新しい日本」に対して悪感情を抱くということもありません。「新しい日本」と「古い日本」はハッキリと区分けして考えられているからです。

問題は、「現在の新しい日本」に属している、あるいは責任のある立場にある人物が「古い日本」の名誉回復を志向したり、「古い日本」と同様の「悪しき価値観」を持っているという場合です。……基本的に不愉快であり、と同時に「理解できない」という距離感を持ってしまうわけです。

従軍慰安婦の問題は正にこのパターンに入ってきます。首相に再度就任する前の安倍首相が「河野談話の見直し」に熱心であったことはワシントンでは有名であり、現在でも警戒感を持たれているのはこのためです。 そこには「新しい日本」と「古い日本」の区分けがされていないからです。また橋下発言が激しい反発を呼んだのも同じ理屈です。

この問題に関しては、朝鮮半島における慰安婦の「募集」というのが「狭義の強制」、つまり軍や警察が「嫌がる女性やその家族を銃剣で追い立てて」集めたという「事実はなかった」という「事実関係の訂正」を行うべきだという立場があります。日本の保守派というグループはこの「訂正」を行うことで「名誉回復」 をするということに大きな関心を払って来ました。

ですが、こうした運動には二つの問題があるわけです。一つは、ここまで申し上げてきたように「悪しき過去の名誉回復」を「現在の新しい日本」が行うことが「どうして必要なのか?」という困惑があります。

そしてもう一つは「狭義の強制はなかった」という訂正は、「広義の強制はあった」ということを改めて認めることになるという点です。つまり「親の借金を肩代わりに身売りと言う名の人身売買が行われた」とか「売春業者の『財産』である女性の逃亡は財産権の侵害になるという理由で警察が妨害した」とか「安全確保を口実に派遣先からの脱走・逃亡は軍によって禁止された」という「事実」を「こっちが正しかったのです。良く理解して下さい」とアピールしても、「そんな非人道的なことを制度として認めていた社会の名誉をどうして認めなくてはならないのか?」という、より一層の困惑を引き起こすだけだということです。

ということは、この問題に関して「狭義の強制」はなかったが「広義の強制はあった」ということを、いくら声高に叫んだとしても日本のイメージについては、全く改善にはなりません。

まず、「古い日本」と「新しい日本」を切り分けて考えること。
この点に関して、今年6月のニュースが思い出される。
ケニアの元独立運動家が、植民地時代に受けた拷問などに対して、
イギリスを相手に起こした裁判についてのもの。
「ヘイグ英外相は6日、原告らに対して遺憾の意を表し、
5200人以上の被害者に計1990万ポンド(約30億円)を支払うと発表した」
朝日新聞新聞 6/8

その時の外相の議会での答弁が、過去と現在を切り分け、
未来のために過去にどう向き合わなければいけないかの、
お手本のようなものだった。

ヘイグ氏は議会で、「ケニア人が植民地の行政当局から拷問や虐待を受けたことを認める」「虐待が起きたことを心から遺憾に思う」と表明。今の英政府に法的責任はないと強調した上で、補償を決めた理由について「現在と将来のケニアとの関係を過去によって曇らせたくない」と述べた。

日本の政治家からも、こんな見事な言葉を聞きたいものだ。
冷泉さんの指摘からも、このヘイグ氏の発言からも、
「強制性の有無」に対する拘泥や「河野談話否定」が、
いかに焦点のずれた子供じみたものであるかがわかるだろう。

冷泉さんの、日本の悪しき過去によって、
現在の日本のイメージは損なわれていない、は、
とても重要な指摘だ。
つまり、「慰安婦問題」で今の日本の威信が損なわれている、
という認識そのものが、そもそも被害妄想の誤ったものであること。
そしてもう一つ、日本のイメージが悪化するのは、過去ではなく、
現在の振る舞いによってだけである、という点だ。
このことは、「慰安婦問題」だけでなく、
日中、日韓の友好信頼関係を築くうえで、
双方が前提としてよって立つ地点でもある。

さて、では日本はどうしたらいいのか。
冷泉さんの記事に戻ろう。

一つの提言をしたいと思います。それは「古い日本」の名誉回復をするのではなく、「現在の日本」の名誉を高める、いや名誉だけでなく実質的に社会を良くしていくということです。そして、この場合は「女性の人権」あるいは「女性の名誉」を改善するということを、改めて国策として打ち出していくのです。

そこには2つの問題を含めて行くべきと思います。一つは、過去の「慰安婦問題」の背景にある「管理売春という事実上の人身売買」を成立させていた風土を根絶するために「トラフィッキング(売春目的での人身売買の根絶」ということについて、アジアで最も進んだ国にするということです。

この問題に関しては、アジアから日本に入国した女性たちが人身売買さながらの身体的な拘束を受けていることが国連や米国国務省などから問題視されています。

(日本人女性に対しても同様に)暴力団に関係するような金融業者が、多額の債務を負った女性を「自己破産させないように脅し」て「結果的に風俗業に従事するように仕向ける」というような、現在では法の網に引っかからないような事象も、徹底して取り締まれるように必要なら法改正も行なって取り組むのです。

そのように「現在のトラフィッキング」を徹底して問題視していく視点の延長上で、改めて「広義の強制」がされた「過去の大規模なトラフィッキング」事例としての従軍慰安婦問題を捉えることができるように思います。「新しい日本」というのは「古い日本」とは「国のかたち」が違うので、「謝罪」の主体にはなりませんが、被害者には限りない同情を寄せつつ、過去の悪質な事例として記憶してゆく、そのような姿勢を国策としていけば良いのだと思います。

二番目には、社会における女性の参画をもっともっと徹底していくということです。そして、その延長上で「アジア的な少子化現象の克服という問題でのフロントランナー」になるということです。

この2つの問題で、日本は全く見違えるように変わったということになれば、その段階においては「慰安婦の問題」は現在形の問題ではなくなります。もっと言えば「新しい日本」としては、国際社会から非難されるような「隙(スキ)」はないことになります。そうなれば、韓国の一部の団体などが「過去の日本と現在の日本」をゴチャ混ぜにして「現在の政府による公式謝罪や公費での救済をせよ」というような主張をしても、事実上そうした主張は宙に浮くことになると思います。

冷泉さんの、特に最初の提言については、慰安婦問題とは別に、
もっと真剣に考えなければいけないと思っている。
橋下発言の底に見えるのは、
私たちの社会が、性風俗産業や売買春に対して、
女性の人権に対して、とても甘い社会であるという事実だ。
その緩やかなコンセンサスの上に、橋本発言や、
「強制性の有無」発言が乗っているのだ。

暗澹たる気持ちになるのは、件の産経の記事でもそうだけれど、
多くの女性が、「強制性の有無」に与して、
自国の名誉を回復したいと訴えていることだ。
「慰安婦問題」は日本が韓国に対して行ったというだけでなく、
自国の女性に対しても行ったものなのだ。
人身売買と性的な搾取は、占領下の日本にもあった。
そして今もある。
自らの性が売買と搾取の対象であった/あることを見ず、
売買と搾取を行ったものを擁護・正当化するということに対しての、
あまりの無自覚さとナイーブさ。
この視点を欠いた、「他国もやっていた」批判は、
滑稽を通り越して哀しくすらある。

冷泉氏も最後に、ダメ押しのようにもう一度言う。

いずれにしても、改めて申し上げますが「狭義の強制はなかった。銃剣を突きつけて連行はしなかった。我々の先人がやったのは広義の強制であり、ただカネで人身売買をやっていただけだ。その点をどうか正確に理解して貰いたい」などという言動が、国の威信を高めることになるというのは、全くの勘違いなのです。

★元記事はこちら

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