原子力発電という「神話」

posted in: 雑感NOTE | 0 | 2011/4/22

◆信じることと疑うこと

東北を襲った地震のあと、海外のメディアから、
めずらしく日本人を称賛する声があがった。
曰く、これだけの緊急非常時に、日本人はなんと冷静なのか、
列も乱さず、略奪もしない、と。

日経ONLINE3月23日の『疑う中国人、信じる日本人』という記事は、
震災を取材に来た中国人記者団が、
原発事故を知るや一部パニック状態となり、
ろくに取材もせずに帰国してしまった顛末を記している。
その中国人記者は筆者に、
「日本人はどうして、こんなに落ち着いているのか。
中国人が過剰反応なのか、日本人の反応が鈍いのか」
と問いかけている。

この問いにあるのは称賛だけではないが、
確かにこの日本人の美点の裏側には、マイナスの側面もある。
美点は、地震・津波災害の避難対応などで見えた。
マイナス面は、原発(事故)を巡って顕在化しているように思える。

「日本人というのは、人を信じやすい性格の人が多く、
ひょっとすると疑うべきものを疑っていないかもしれない。
しかし、疑うことよりも信じ合うことを美徳としてきた国民性は
簡単に変えようとして変わるものでもない。
疑うことで個人が自分の身を守り
たくましく逃げおおせて生き抜いていくのが中国人なら、
信じ合うことで団結し踏ん張って甦るのが日本人なのだと思う 」
「だが危機に際して、人の良心を信じたいという強い思いが、
正常な判断を狂わせることもあるかもしれない」
と、同記事はまとめている。

だがこの場合、「正常な判断を狂わせることもあるかもしれない」 のは、
愚直なまでに「信じ」ることにあるというよりも、
その裏側の「疑わ(え)ない」ことにあると、私は思う。

私も、今回の日本人の冷静さと秩序だった振る舞いに、
社会や人間に対する信頼を見た。
だが少し時間をおいて考えると、そこには別のものも透けて見える。
個の抜けがけや逸脱を許さない集団監視や、自己規制である。
「信じあうことで団結」する日本人は、
その枠から離れて、個人で考え、行動することが苦手で、
他者がそうすることに不寛容だ。
「信じあうことで団結」する人びとは、ときに(批判的)思考を放棄し、封印する。
そのことのひとつの帰結が、福島第一原発の事故ではないのか。

日本人の美質と表裏一体にあるこの特徴は、
外国人記者が見た「この国のメンタリティ」「優しすぎる日本人へ
(現代ビジネス 経済の死角 4月6日)においても指摘されている。
先の中国人記者と同様、海外のジャーナリストの目には、
世界のどの国の人たちとも異なる、緊急時に顕になった私たちの特質の両面が、
しっかりと見えるようだ。

 

◆「神話」を必要とする「ムラ」

福島の事故のあと、「原発の安全神話は崩壊した」と言われる。
だが重要なのは、崩壊以前に、そもそも原発の安全は「神話」であった、
ということだ。

ちなみに、神話とは、

1 天地の創造を擬人的に説明し、森羅万象に宿る霊の存在や、民族の祖神の活躍を述べる物語。〔古代人・未開社会人の間では、骨肉間の結合を固めるために絶対必要なものとして疑われなかった〕

2 △かつて(長い間)絶対と信じられ、驚異の的とさえなっていた事柄。〔多く、現在は俗信に過ぎないという観点で用いられる〕

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

とある。

原発の「安全」は、まさに「俗信に過ぎない」ものが、
「骨肉間の結合を固めるために絶対に必要なものとして疑われなかった」
「神話」であった。

「疑っていた」人たちがいたにもかかわらず、
それらの声は見事に封殺され続け、
「一部のイデオロギー論者の言うことである」という風潮に収斂された。
確かに「疑い」を声にする方法論の問題はあったかもしれない。
けれどもこれらの声を掻き消し、
「神話」を必要とした強固な「骨肉」集団(=ムラ)は、現実にあったのである。

ひとつめの「ムラ」はいわゆる「原子力村」である。
原発推進派の「原子力における産官学の閉鎖的な利益共同体」と説明される。

もうひとつは、前回の記事でも紹介した開沼さんが言うところの、
原発を受け入れてきた「ムラ社会」である。

第一の「ムラ」の強固さは、
政府・東電の事故経緯の発表にも見て取ることができる。
そこには、メディアに対する以下のような動きすらある。

福島原発に関する報道規制及び言論統制状態まとめ

一方、ふたつめの地元の「ムラ」について語ることには、
産官学の「原子力村」を語る以上の重さがのしかかる。
統一地方選のさなかの朝日新聞の記事(4月18日 朝刊)、
『原発の街 訴え苦心』が明かすのは、
交付金や雇用にがんじがらめに絡み取られた、
硬直した地域社会の姿だ。

たとえば「原発との共存」の立場を崩さない、”原発銀座”福井県の敦賀市。
「計画中の二基の工事が実現すれば、地元に1200億円の経済効果」があり、
「原発建設や補修に携わる企業は550を数える」。

青森県六ヶ所村の現職村議は、
「(今さら)是非を語ることなんて無意味」とまで言う。
議会の20人全員が推進派である村で、ある女性(50代)は、
「白い眼で見られるから」と反対を口にできず、選挙は棄権している。
「選挙に行きたいけど誰も入れる人がいない」のだ。

2001年に鎌田慧は『原発列島を行く』(集英社新書)で、
敦賀市をはじめ、原発立地自治体を取材して歩き、
「原発は地域を(交付金漬けにより)麻薬依存症のように荒廃させる」
と記した。
10年たった今も、福島で「安全神話」が崩れた後であっても、
この「依存症」からの脱却は困難を極めるに違いない。

同じ18日に報じられた、朝日新聞の世論調査を見てみよう。
原子力発電の今後について、2007年との比較。
・増やす 13%⇒5%
・現状程度 53%⇒51%
・減らす 21%⇒30%
・やめる 7%⇒11%

「増やす」が減少、「減らす」と「やめる」が増加、これはわかるとして、
「現状程度」がほとんど変らないのが不思議でもあり、
やっぱりな、という感じでもある。

同調査では、他の原発で大事故が起きる不安について、
「大いに感じる」が50%、「ある程度感じる」が38%とある。
上の設問の答えと付き合わせてみると、
半数以上の人は、次の原発事故の不安を感じているにもかかわらず、
電力の原発依存の「現状程度」は仕方がない、
と捉えていることになる。
これはどういうことだろうか。

原発には「安全神話」以外にもいくつかの「神話」がある。
まず電力における原子力の依存度30%という数字、
「クリーンエネルギー」であるということ、
また、原発は低コストであり、それに比べて代替エネルギーは高コスト、
しかも不安定・不十分なエネルギーである、という点など。

大変情けないことに、事故という最も不幸な形でしか、
「安全神話」の”神話性”に気づかなかった私たちは、
同様に他の「神話」についても「信じる」ばかりで、
疑ったり、調べたり、議論したり、批判したり、
つまり自分自身の頭で考えることをしていないのではないか。
朝日の世論調査の数字に現われているこの層が、
全てそうとは思わないけれど、私にはそこに、
強固な第三の「ムラ」が見えるのである。

この「ムラ」を、身近な場で感じることもあった。
何故か、福島原発の事故について話を始めても、
今後原発をどうするのか、そのために事故の検証と批判をすべきだ、
というところにくると、 一部に、
話しをその先に進めたがらない人たちがいるのだ。

興味深い記事がある。
中国の民衆は「原発危機」をどう見ているのか』(日経ONLINE 4月8日)

あの言論統制著しい国で、
「中国は原子力発電所を建設すべきかどうか?」という論議が、
「国会で、教室で、巷で、新聞で、インターネット上で、活発化している」
というのである。

しかも、保守派の《環球時報》とリベラル派の《南方週末》が、
「原発建設はすべての国民の生活に関わる重大な問題だ。
国民にはその中身を知る権利がある。
多大なコミュニケーションコストがかかったとしても、
政府は国民に対し自らの取り組みと意思を丁寧に説明するべきである。
国民の理解を得られるよう努力をし、安全な原発建設を長期的に進めていくべきだ」
つまり、「民主的に原発を建設しましょう」で、一致しているというのだ。

どうやら中国にとって、原発論議は政治的なタブーではない、ということらしい。
翻って日本はどうか。中国のように、原発に関して、
「国会で、教室で、巷で、新聞で、」活発に語り合うことができているのか。

タブーに関しては、日本には原発論議に関するタブーはあると、
私は感じている。
ひとつは、何故被爆国日本が、国策として原発を推進してきたのか、
という疑問に対する答えとして(ここにいたって問題は「核」となる)。

もうひとつは「白い眼で見られる」地元共同体でのタブー。
最後に、リスクを地方に負わせ、廃棄物という負の遺産を未来に委ね、
現在の恩恵だけを受けてきた私たちの間のタブー。
見たくない、聞きたくない、言いたくない、(=考えたくない)ことに触れるな、
というもの。

つまり日本は、(少なくとも)原発に関しては、民主国家ではなかったのだ。
「原発独裁国家」だったのだ。
それを、三つの「ムラ」社会が支えてきた。

孫正義氏は、田原総一郎氏との対談に、
原発技術者の田中三彦、後藤政志両氏を招き、
福島の事故の検証と、今後の原子力政策について議論している。
http://www.ustream.tv/recorded/13845813

対談の中で、氏は、自分はこれまで原発推進派だったけれど、
それは誤りだった、と率直に述べ、
今後原発をどうするかについては、国民投票をするべきだ、と提案している。

また、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也氏も、
3.11後の原子力・エネルギー政策の方向性』のなかで国民投票を提案し、
次のように記す。

ス ウェーデンが1980年、オーストリア、イタリア、日本でも巻町で原発の住民投票がありました。国民投票の意味合いというのは、白黒決着をつけるというよ りも、国民が政策の当事者意識を持って、ある期間その問題を徹底的に考え抜くという、国民教育にあります。スウェーデンでも1年間ありました。

一 部脱原発派の方には、国民投票でマスメディアがプロパガンダに載っけられて負けるんではないかと心配する人もいます。しかし、私は、勝ち負けではなく、原 子力と環境とエネルギーと日本の未来を一年間徹底的に考え抜くツールとして、国民投票をやることにすごく意味があると考えます。

(4月8日 (社)サイエンス・メディア・センター ・SMC-Japan.org)

いくつかのタブーは、福島の事故を契機に、「新聞で、インターネット上で」
解禁となったようにも見える。
前回の記事で、私はそこを紹介したつもりである。
さて、それでは、それ以外の場で、身近な暮らしの場で、
私たちは「原発民主主義」を、
震災復興支援とは切り離した、未来への良心の問題として、
この手に取り戻すことが、できるのか。

 

◎「神話」を現実化する為の参考

なぜ警告を続けるのか?京大原子炉実験所・”異端”の研究者たち
⇒原発に疑問を持つ立場で研究を続けている
京大七人衆のドキュメンタリー。制作/大阪テレビ。
4月29日に削除されるとのこと。お早めの視聴をお勧めします。

風力・太陽光エネルギーが原発を逆転 福島事故で差は拡大へ
⇒2010年の世界の発電容量は、
風力や太陽光などの再生可能エネルギーが原発を初めて逆転した。

 発電容量の増減の推移
(4月16日 MSN産経ニュース)

東電の悪夢、問われる原発の合理性 吹き飛んだ2兆7000億円弱
⇒これまで原発は安全性に難点はあるものの、燃料コストが安く、
経済合理性に優れているとされてきた。
だが、「原発の経済合理性」を事故を契機に再考すると…。
(4月12日 日本経済新聞Web版)

原発Nチャンネル14 原発なしでも電力足りてる
⇒上記の京大原子炉実験所・小出裕章氏の講演

『パエトーン』 山岸涼子 特別公開
(潮出版社無料WEBコミック)

・『原発と日本の未来–原子力は温暖化対策の切り札か』
(吉岡斉/著 岩波ブックレット2011.2.8刊)

・『隠される原子力 核の真実』
(小出裕章/著 創史社 2010.12.12刊)

・『原子力防災』(松野元/著 集英社/三省度書店 2007.1.24刊)
⇒友人からのおすすめ。
「原子力リスク全てと正しく向き合う」ために書かれた、
良心的「推進派」の本。
原発事故の詳細な対応マニュアルがあったにもかかわらず、
「安全神話」が足枷になって、それが現場にいきわたらなかったという。

 

◎福島第一原発の事故経過

NHK解説委員室

東電 福島事故資料

福島原発の収束に​向けた「工程表」を徹底検証
(ニコ生特番 4月21日)
⇒インターネット・メディアとフリージャーナリストが果たしている役割の大きさを、
今さらながら感じさせるトークセッション。
それに対して、最近になって出てきているネット規制の動きは、
言論統制として注視する必要がある。

 

【補足】4月22日

是非紹介しておきたい明るいニュースをひとつ。

城南信金、脱原発へ節電計画「3年以内に3割減」
⇒こういう企業を応援したい。

検索したら、理事長のメッセージがYou Tube にあがっていた。
視聴して、あらためて、素晴らしいメッセージだと思ったので埋め込んでご紹介。

これって本当なの!?というのもあった。

風力発電で原発40基分の発電可能 環境省試算
⇒本当なら、原発ゼロも夢じゃない。
あまりに話しがうますぎて、まに受けていいんだろうかと思ったりして。
が、はなし半分でも脱原発の充分な追い風にはなる。

いずれにしろ、世界では着々と進んでいた自然エネルギー研究が、
日本では立ち遅れていることは確かなこと。
これを機に、日本復興プロジェクトに組み込むのはどうだろう。

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