『クラブ・ジェイン』 と 「娼年」

posted in: 創作NOTE | 0 | 2008/8/5

『クラブ・ジェイン』ができるきっかけになった小説について、
少し触れておこうかと思います。
石田衣良の『娼年』というのがそれ。読んだこのある方もいらっしゃるでしょうか。
実は私、全然読んだことのない作家だったの。
たまたまTVで見て頭に名前が残ってたときに、
たまたまこのタイトルと内容に興味を覚えて読んだのが、昨年の暮れでした。

タイトルからもわかるように、主人公はコールガールならぬコールボーイ。
性描写もしっかりあるけれど、でも全体的には、さらさらときれいな水が流れていくようなお話でした。
そうそう、石田氏は“水”という言葉を、性描写のシーンで女のあるものを表現するのに使ってて、そのことでも、けっして粘らない、澄んだイメージが強まっています。

ただ私からしてみると、あれを“水”と言われることに若干違和感はあって、
つまり女の欲望を象徴するものとして考えてみると、
乾けばあとも残さずに消えてしまう“水”ではあまりに頼りないし、
個々の主張も、従って個性も弱まってしまう。

だからかな、20歳の『娼年』リョウは、
『さまざまな女性のなかにひそむ、欲望の不思議に魅せられて』(文庫版裏表紙より)、女性の多様な欲望を満たす仕事を天職のように遂行していく、でもそのときどきの女性の欲望にどうもリアリティーを感じなかった。
まあこれはひねくれ読者の感想ですが。

それはさておき、読み終わってもうひとつ考えたのは、
これが少年が主人公でなくて、少女だったら(20歳は少年少女だろうか?というのは置いておこうね)どうなのか、と言うこと。
はたしてこれほどさらさらとしたお話になるのか、と。
作家の力でそれはどのようにも可能かもしれない、けれどもやはり、
そこには別のものが自ずと現れてくるにちがいない、と。

というわけで、最初はゲームのように男女を入れ替えて遊んでいただけなので、いくつかの設定を石田氏の『娼年』から拝借しています。
たとえば主人公の名前、バーで働いていること、シャツのボタンを一番上まで留めていることなど。それからもちろん、一番重要な、コールボーイズクラブとデートクラブという設定と、二人のリョウの心に一番深く刻み付けられている異性が近親であり、亡くなっていることです。
母と兄という違いはあっても、その夢を繰り返し見ることも一緒です。

ストーリーの展開でも、両者が左右対象になるようなシーンも出て来ます。もちろん、それらはどんどん非対称になって行って、まったく違う物語り、まったく違う結末にはなるんだけれど。

でもね、書いているうちに、きっかけなどどうでもよくなっていた、というのが本当のところ。
少女が主人公でさらさらが可能かどうか、可能でないならどうなるのがリアリティーがあるのか、などと最初頭で考えたことはすっかり忘れていました。

私は若干の設定を『娼年』から借りたけれど、それはすぐに私の作り出した場面に変貌し、その“場”のなかで、私の生み出した主人公たちがどんどん勝手に動いて、結局私は、私の好きな、私の書きたいことを、ただ書いただけなのでした。

もちろん、石田氏の『娼年』のモチーフに魅力を感じたことが書く上で大きな原動力になったのは確か、ただそのモチーフは、私だったら違うものになる、したがって同じ設定であっても、表現も最後まで追っていくものも違うものになる、それを形にしてみたい、私の願いはこのようなものだったと思います。
はたしてそれが叶ったかどうかは、わからないけれど…。

一話目をアップしたあと、すぐに変更して差し替えたのは、ここは某所と違って(いくら閲覧者は比較にならないほど少ないとは言え)オープンな場なので、できるだけ石田氏の小説と同じ設定やシーンを排除したいと考えたから。

そのことによって弟四話目までは、入れ替えやカット、挿入が何箇所かあります。
とは言え、どうしても、もうその設定やシーンを土台に物語がしっかりできてしまっていて、簡単にははずせないものも多くて。
そのうちもう一度、大幅に見直す気になるかもしれませんが、それには時間も根性も必要なので、とりあえずはこの状態で置いておくことにします。

石田氏の『娼年』は、近年の“性の売買”における男女機会均等傾向や、『娼年』のリョウが中年女性(亡くなった母や、その母を思わせるコールボーイズクラブのオーナー、それから様々な女性客)に寄せる思慕や賛美、彼女たちの性的欲望を肯定することとか、あれこれ考えたり、話の種にしたり、そういうことが出来る小説だけれど、そのあたりは長くなるので、またの機会にします。
 

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