『エジプトの騒乱に見る近代の終わりの始まり』videonews.com

posted in: Around the 中東、A piece of 中東 | 0 | 2013/8/28

8/24日のVideonews.com は、エジプト騒乱がテーマだった。
古いシステムと新しいシステムのぶつかりあいにSNSの果たした今日性や、
背景となる経済問題を近代のエネルギー問題にからめて読み解く論評。
エジプトの騒乱はこの二つの意味でも他人事ではないのだと、
あらためて思う。

いつも通り、神保哲生と社会学者の宮台真司が司会。
内容は宮台さんが自ら出色の出来とつぶやくほど。
有料会員だけしか視聴できないのがもったいない。

エジプトの騒乱に見る近代の終わりの始まり
マル激トーク・オン・ディマンド 第645回(2013年08月24日)
ゲスト:山本達也氏(清泉女子大学准教授)


山本氏は、2011年の1.25革命を「タハリール1」と呼び、
その背景であった、失業問題、食糧問題など、
滞っていた経済政策が解決されなければ、
遠からず「タハリール2」が起きるだろう、もし起きたならば、
それはより暴力的なものになるだろうと、予測していた。

議論では、まず1.25革命と今回の政変に共通する側面を、
以下のようにまとめている。サイトの概要から。

山本氏は今回のエジプトの騒乱に「近代国家が今後直面するであろう問題」を見い出す。エジプトでは政権に対する長年の不満がフェイスブックなどのSNSを動員のツールとして噴き出し、抗議デモによって政権を追い落とすことに成功した。市民が不満を表明すれば政治を変えられるという成功体験の味を覚えてしまったのだ。しかし、これは近代国家システムを支えている代議制の否定であり、引いては民主主義の否定をも意味する。

SNSによって進化&強化した「路上民主主義」が、
レバレッジのようにきいて民主革命がなった。
ところが、その進展(の無さ)に対する批判から、
再度同じような力学で今度は反対に振れた。
このことの意味は、そう単純ではない。
そこには、「引いては民主主義の否定をも意味する」どころか、
すでに西欧型の民主主義に対する懐疑があるのかもしれないし、
あるいは、彼らの頭にある「民主主義」の相貌が、
そもそも異なるのかもしれない。

最初の「路上民主主義」を担った者たちが革命後に見たのは、
同胞団の政治能力の無さだけではなく、
代議制の不完全さ、極端に言えば欺瞞性でもあったのではないか。
毎日新聞が、若者勢力が政権に入らず、「外側から見守る」、
というのを無責任だと批判していたけれど(私もそう思っていた)、
上記のように考えると、彼らの位置取りが理解できるような気もする。
にしても、壊すだけではなくつくることをしないことには、
改革も革命も果たされない。

背景となるエジプト経済問題について、山本氏は、
石油の産出量と国内消費量、輸出量の図を使って説いた。

エジプトの石油は量は多くはないけれど、
当初は国内消費以上に輸出するほどの余剰があり、
石油を売って得た外貨で、不足する食料を買っていた。
ところが、簡単に掘れるものを掘りつくしてしまうと、
掘るのによりコストがかかるようになる。
その結果、産出量も減る。

一方人口は増加し、ライフスタイルは近代化し、
エネルギー消費量は増加の一途。
2008年、ついに国内消費だけで目いっぱいとなる。
この年はリーマンショックもあり、出稼ぎ労働者からの仕送り、
観光収入、スエズ通行料など、石油以外の外貨収入も減っていただろう。

(エネルギーで成り立っている近代社会の限界が、
ここにメタファとして露呈している。
石油で見ると、世界はエジプトと同じ図式の上にいるのだ。
当初1のエネルギーで100掘れていた石油は、今では、
掘るのにより大きなエネルギーを必要とするようになっている。
埋蔵量がいくらあろうとも、1のエネルギ1で一しか掘れなければ、
私たちは輸出する石油どころか、
消費するエネルギーすら得られないのだ。)

2011年にタハリール集結の中心となった4月6日運動は、
この2008年に活動を開始している。
すでに革命の必然があったうえに、
チュニジアの「ジャスミン革命」という偶然が重なったのが、
エジプトの1.25革命であった。

問題は、エジプトが抱える経済の構造的脆弱性である。
「食えない」が騒乱の根なのだから、
政権がどう変わろうと、「食える」ようにしない限り、
エジプトは安定しないだろう。
本当は、国民が割れて争っているような時ではないのだ。

「腐敗しているけれど統治能力があった」政権をおろし、
「クリーンだけれど統治能力がない」政権がたった。
治安は悪化し、経済は一層逼迫した。
では、前のほうがまだましだったと、
まんま以前の状態に戻せるのか、戻していいのか。

ムバラク時代から生き残っている勢力がいる。
彼らと軍が、この際だからと同胞団を徹底的にたたくことが、
この国の安定と復興に寄与するとは思えない。
もし政権がまた独裁と腐敗に振れ、
弾圧により政権に対する怨念が沈潜したら、
そして「食えない」状態が改善されなかったとしたら……。
事態が最悪のシナリオをたどった場合、
「タハリール3」は、より苛烈な形で出てくるだろうと、山本氏は言う。
抵抗は(ということは弾圧も)より激しく、
エジプトという国そのものが消滅するような……。

いずれにしろ、従来の民主主義を絶対善のように掲げ、
民主化プロセスを声高に叫ぶばかりでは、
エジプトの問題は解決しない、ということは確かだ。
二つに割れた双方が、相手を「テロ組織」と「虐殺者」
と呼び合うことも同様だ。

今日、エジプト人と結婚している、
カイロ在住の日本人女性のブログを読んだ。
彼女は暫定政権の虐殺に激しい怒りと悲しみを感じ、強く批判している。
エジプトに関心を持っているのなら是非これを見てくれと、
16日の、100名を超える死者を出した衝突現場である、
広場とモスクの動画を紹介していた。

日本のニュースでは絶対に流されない、死者たちの血にまみれた姿、
最後に、死んだ母の遺体の近くで、男性に支えられながら、
大声で泣き叫ぶ男の子。
彼はどんな大人になるのだろう。

あるインタビューを思い出した。
デモに参加している同胞団の若者は、
(それが正しい行いなら)死んでも天国に行ける、
だから(自分たちは)たとえ死ぬとしてもデモに行く。

そして、こう言った。
良くなるまでずっとデモを続ける。
エジプト人が半分になってしまうかもしれないけど、と。

武力弾圧と武力闘争に、怨念がたまっていく。
暴力の連鎖を、どのようにしたら乗り越えることが出来るのか。

宮台さんが指摘した次の点にも、深く考えさせられた。

「(スノーデンやマニング上等兵が明らかにした、
国家と個人、国家と国家の問題にからめて)
露呈してしまったアメリカに対する怨念は力によって押さえるしかない。
それは次善策でしかないが、それしかできないことが
(ITテクノロジーの進展もあって)見えるようになってしまった。
(その内実の非人間性を告発することに)
従来の市民社会的な法令順守の枠組みは必ずしも当てはまらない、
政治責任という図式で正当化したり解説することは難しい。
程度問題であっても、その程度はどこまでが許容されるのか、
どこからが行き過ぎなのかがわからない」。

この、「許容の程度や行き過ぎの程度がわからない」ということは、
エジプトの混沌とした騒乱状態を踏まえての指摘だ。
「クリーンだけど統治能力の無い政権」下で、
「タハリール1」にはあった秩序が「タハリール2」で失われ、
コプト教徒への襲撃が公然と語られるようになるなど、
明らかにある一線を越えていた、と山本氏は語る。
現実問題として事態の収拾能力を持つのは、
「腐敗しているけれど統治能力のある」軍しかない。
しかし、その次善策に対しての許容の範囲は「わからない」。

凄惨な死者の映像を見て感じたのも、この「わからない」だった。

そこにあるのは、ある意味無益な、無残な、
本当だったら死ななくてもすんだ、そんな一個の死だ。
かつて「特攻」で死んだ若者たちは、日本を勝利に導くどころか、
ただ「英霊」という悲劇の主人公にしかなれなかった。
「殉教」は、私にしたら「特攻」と同じだ。
治安部隊や暫定政権という、実際に殺した者や組織に対するというよりも、
もっと漠然とした、からまりあった、
彼らを死に導いたすべての要素に対する憤りとやりきれなさ、
それが「わからない」の裏側に、へばりついている。

p.s.

本文では、山本氏の「最悪のシナリオ」だけに振れたけれど、
次善の(現時点では次善策しかない)シナリオも紹介しておこう。
曰く、軍服ではなく背広を着た大統領が出てくるだろう。
たとえ実質的には軍主導であっても、
それがムバラク政権時代のような独裁に戻ることであっても、
秩序は回復されるだろう。
注目しているのは、「タハリール1」を主導した若者たち。
彼らの姿が見えてこないのはなぜか?
きっと何らかの準備をしているはずだ。
それはどういうものなのか?

 

治安は、戻りつつあるのだろうか。
エジプト、夜間外出禁止令の緩和を検討 (日経 8/24)

たとえどのような理由であっても、「殉教」が減ったならば良しとしたい。
モルシ派「殉教デモ」失敗=弾圧で動員力に陰り―エジプト
(時事通信 8/24)

 

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