Twittery1103 – 地震から一週間

posted in: 月誌 | 0 | 2011/3/18

地震から一週間。
この一週間が、これまでと同じ一週間という気がしない。
あのときから、時間の感覚が少しおかしくなっているのだろう。
被災された方は、きっともっとおかしくなっているに違いない。
もしかしたら、TVで何度も映し出された、
2時46分のまま止まった、時計の針のような感じではないか。

被災しなかった私たちの誰もが、
あの瓦礫の映像を見て、なんということだと、 胸を痛めていることと思う。
どれほど人の手が要るのか、自分に何が出来るのかという声を、
周囲でも多く聞いた。
あまりのショックに、人生観が変ってしまった、という人もいた。

そうして、スーパーの棚からお米やパンが消えた。
私たちに出来ることは、そう多くはない。
そしてそれは、それほど困難でも、負担を伴うことでもない。
買い占めをしないこと。
しかしこのことが、どれほど難しいことか。

海外のメディアに、地震や津波の被害の大きさを伝えるニュースと共に、
こんな過酷な現実の只中にあっても、日本人はなんと冷静なのか、
目の前にある食料を略奪する者もいないと、
賞賛の記事が出たという。

だが、日本人に限らず、とっさにいつもの行動をとってしまうのは人の習性だろう。
いつも列に並ばない国民は、地震のときも同じように、我先にと列を乱すだろう。
同じように私たちは、たとえ非常時であっても、
なかなか人を押しのけて自己を主張したり、集団の規範を乱すことが、
出来ないのだ。

と同時に私が思ったのは、
この私たちの(あるときは)美徳でもある習性は、 周囲の社会、システムと、
それらを形作っている人間に対する、信頼に基づいているものだ、
ということである。

彼らは、あのような危機的な非日常の中にあっても、
自分たちが属す社会のルールに則って行動することにより、
その社会が個々の身を守ってくれると、信じているのだ。
(自分で自分の身を守るしかない社会では、危機にあっては、
力づくで目の前の食料を奪い取らなくてはならない。)

そして、この被災された方たちの信頼は、
被災していない他の人びと、即ち私たちに向けられている、ということ。
日本という社会は、私たちは、この信頼に応えられるのだろうか。

一方、買いだめの心理は、また違うものだ。
こちらは、不信である。
今日食べるものはある。明日のものもある。
でも、あさってには、必要なものが供給されなくなるかもしれないと、
疑っているのだ。
あちらに信頼があり(信頼するしかない、のではあっても)、
こちらに不信がある。
その間にあって、こんなときに旅行(買物・式典・祭事・エトセトラ)などしていられないと、
「自粛」する人たちがいる。

それらの(遊行)費用を救援募金にあてようという方の行為は、
少しでも被災者を助けたいという善意に満ちている。
また、自らの楽しみや贅沢を取りやめることによって、
被災者の痛みや悲しみ、困難に寄り添い、共感や励まし(の気持ち)を送りたい、
ということもあろう。
もっと言えば、自らのショックや恐怖、不安を和らげる意味もあるのかもしれない。

が、「自粛」したとき、そこに回ることを予定された代金・費用・経費は、
全て被災者のところにそのまま行くのだろうか。
彼らの善意や共感や励ましは、届くのだろうか。
たとえば、祭りではどうか
(私が住む市では、恒例の大きな春の祭礼が取りやめとなった)。

直接募金を現地に届けるのは急を要することではあるし、
チャリティーのように他の経費が発生しないので、有効活用もできる。
100円でチャリティーつき消しゴムを買うより、
100円を現地に送った方が良い。
確かに短期緊急的にはそれはその通りである。

けれども、これをずっとやっていると、
募金をする側の体力は急激に衰える。
私たちは消しゴムを買うだけでなく、作る側の人間でもあるのだから。

13日にアップされた動画で、大前研一氏は、
期間を限って(一年間とか)、消費税を1%あげればいい、と提言していた。
1%で2兆円とのことである。
この全てが復興支援に回されるとしたら、
そして期限が区切られれば、おそらく国民は納得するだろう。
少なくとも私はすんなり納得できる。
そしてどんどん遊行費を使う(使える余裕が出来るほど仕事で利益を上げたい)。
買い占めぐせのついた人たちにも、
向こう10年ほどの備蓄を、どんどん買っていただいたら良いのではないかと思う。

大前氏の動画は以下にある。

http://www.youtube.com/watch?v=U8VHmiM8-AQ

内容の主要な部分は、実は福島原発についてである。
本来は有料会員向けのものらしいが、多くの人の関心を考えて公開とのこと。
おかげで、明解で詳細な(かつ隠されていない)氏の解説により、
TVや新聞報道で感じていた疑問が、初めてクリアになった。

福島原発については、日に日に深刻度が増している、
災害というより、あってはならない事故として、
日本は今までにない困難に直面している。
この現在進行形の大惨事を、どのような言葉で語ればいいのか。

私が住んでいるところから50Km弱にも、5台の原子炉があり、
6台目を作ろうとしているところだ。
この源発も、やはり地震地帯・海岸沿いにある。

あのときであれば、エネルギー政策の転換は、
まだ今ほど難しくはなかった。
スリー・マイルのあと、チェルノブイリのあと。

だが大前氏は、もう日本で原発(によるエネルギー政策)の継続は無理だろうと、
言い切っている。
未練がましく、ぐずぐずあれこれ思い惑うより、
ええい仕方がない、もう止めるしかないと思い切るほうが、
どうせならいいような気もする。

でないならば、私たちはずっと、このような原発のリスク、
即ち、被爆を覚悟の上で生きていくことを、選択するしかない。
だがそれは、日本が未曾有の災害から復興し、世界で生き延びていく道を、
開くというより、むしろ閉ざすのではないか。

外国人が、日本から脱出しようとしている。
たとえば空路中国線は、発着空港を問わず、直行・経由便の全てが、
3月28日までの新規予約受付停止と、かつてない活況を呈している。
だが彼らはいつ戻ってくるのか。

世界に売り込んでいた原発も、信頼性はがた落ちで、
おそらくもう売れないだろう。
売れないのは原発だけではない。
日本から届くあらゆるものに、放射線測定器が向けられるのだ。
空港に到着した日本人にも。

風評被害だと、政府は言うだろう。
私たちは逃げるところなどないから、
人体に影響なしと言われれば、それを信じるだろう。
だが問題は、被爆の程度や科学的な影響の真実などでは、おそらく、ない。
たとえ現段階で、これ以上の原発の暴走を止めることが出来たとしても。

それは何かといえば、人間の、近代科学の驕りだと、私には思える。
コントロールなど不可能なものに対して、
コントロール可能と思ったこと。

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