Mensile1104 – 月一で一周年

posted in: 月誌 | 0 | 2011/4/11

月一度くらいは記事を書かなきゃ、と決意してから一年。
11・12月だけはまとめて一本になってしまったけれど、
なんとか続けることが出来た。
これくらいが私のノルマの限界なんだろうと思う。

一年を期に、というわけではないけれど、
タイトルの頭につけていたTwitteryを、Mensileに変えることにする。
伊語で月(刊)誌、カテゴリ名そのままである。

一年前の今頃、たまたまTwitter にアカウントをつくり、
最初は一日一ツィートを目指したんだけれどすぐに息切れ、
週一にしてもやはりダメだった。

フォローする人も数人に絞ったのに、やがて追いかけることできなくなり、
こんな状態なので、フォロワーが現われてもすぐに去っていく。
知人・友人の誰にもアカウントを知らせる気になれず、
結局、ただのメモ日記になっている。

今回の地震では、電話が携帯も含めて通じなくなり、
安否確認や情報交換で、Twitter は大変役に立ったという。
非常時のためにも、日ごろから利用しておくのが大事だ、
と再認識はしたものの、どうも腰があがらない。

逆に一層注目し、視聴に時間を割いているのがインター・ネットメディアで、
それは先日の「雑感」で書いた。

中東への思いが、何故か突然リアルなものとなったのが12月のはじめ、
やがてチュニジアでジャスミン革命が起き、
それが1月にはエジプトに波及した。
エジプトではムバラク退陣で収束したうねりが、
他の地域に飛び火しつつあった2月、シリア・ヨルダンに出かけた。

リビアやバハレーンでもデモが起きていると、
バスの中でガイドが少し教えてくれたけれど、
エジプトでは平和的に推移していたこともあり、
シリアでもヨルダンでもひと気のない遺跡ばかり回っていたし、
緊迫感はほとんどなかった。

リビアが内乱状態になりつつあるのを知ったのは、
帰国時のカタール空港で、インターネットのニュースタイトルを見たときだった。
その後デモはイエメンやシリアなどにも及び、
各地の状況で楽観を許すところは、今はひとつもない。 
そして地震・津波と原発事故。
書きかけた旅行記も気持ちがトーンダウンして、途中になっている。

(途中なのは『色・褪せない』も同じで、
こちらの気持ちは、正直に言ってガソリン切れに近い。)

シリアでお世話になった「駐在員」さんは、無期限帰国となり、
中東への「窓」として楽しみにしていた彼のブログも、
数日前が最終話だった。
外務省のシリアへの渡航危険情報が一段引き上げられ、
この先いつそれが引き下げとなるかまったく読めない状況だし、
日本からのツアーが造成されないとなれば、仕方がないだろう。

だが、彼の帰国の理由は、(たぶん)中東の情勢にだけあるのではない。
日本情勢もまた、大きなマイナス要因のひとつだ。
地震・津波だけであれば、人びとの「自粛」気分も次第に回復したかもしれない。
けれども、原発事故が深刻さを増し、
出口が見えない状態で長期戦となることが明らかになり、
世界の日本に対する「風評被害」が出ている状態で、
人やモノの動きは、否応なく抑制される。

シリア・ヨルダンの遺跡を回って一番感じたことは、
今は砂漠に石の柱が残るだけの空間が、
かつては人やらくだが行き交い、絹や香辛料、塩や金や象牙などの物資が、
東から西へ、南から北へと運ばれ、
賑やかな市がたっていた都だったということだ。

繁栄した都市が滅びたのには、それぞれの理由があった。
交易のルートが変ったり、国家間の勢力争いで敗れたり。
なかに、地震によって衰退し、いつしか砂に埋もれてしまった都がある。
ヨルダンのペトラである。
ガイドの説明は、赤い岩に刻まれた神殿やローマ劇場、墳墓の彫刻、
岩肌の模様の美しさなどに心を奪われ、さらりと聞き流してしまった。
今調べると、それはAD769年のことだった。

人がつくりあげたもので、永遠に残るものはひとつもない。
ペトラの岩の彫刻も、地震には耐えたものの、
風雨に晒されてすっかり上部が磨耗し、
膝から下しか残っていないものもあった。
長い長い時間がたてば、きっとこれらの人の手の痕跡も消え、
ただ自然の侵食を経た、岩山の連なりになるのだろうと思った。

同様に、人の世界のテクノロジーや科学の成果も、
自然の前に「絶対」とはならない。
これは原発事故のあとに思ったこと。
なんだか最後は、この前の月誌と同じことになってしまったけれど。

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