橋本治に惚れ直したよ、「ぼくらのSEX」

posted in: 読書NOTE | 6 | 2009/1/4

これ以上は望めないほどの性教育の本を見つけた。「ぼくらのSEX」。
まっとうすぎて涙が出るくらい。
たまたまオンライン古書店で橋本治の小説をあさっていて、目に止まったのだ。
けれども白状すると、私はこれを自分のために買った。
 

あの橋本治がまっこうからSEXについて書いているとしたら、それはどういうものなのか、
そのことを知りたかった。
だからタイトルだけで注文し、手元に届いてページをめくってみて初めて、
これが思春期の若者に向けての、いわゆる性教育を想定しての本だと知ったのだ。

性が、人間の生きていくエネルギーそのものであることから説き起こして、
徐々に古臭い固定観念をほどいていく
(オナニーがSEXの基本、などとこうもさらり言ってのける性教育の本なんて、他にあるのだろうか)。

しかもこれは実に贅沢な、お買い得な本だ。
なにせこれまでの因習に囚われた男と女の性を語るのに、なんと源氏物語が例にあげられるのだ。
「窯変源氏物語」の作者が、源氏と、源氏を取り巻く女たちの悲哀の核心を、
端的で分りやすい言葉で語る。
ここで私は思わず本を閉じ、天を仰いでうなった。

もしこれが読者として成熟した大人を想定している本なら、彼はこれほどのサービスをしないだろう。
思春期の若者だから、「源氏」の核心をぽんと、おしげもなく投げ出してくれる。
そのことのすごさを若者はわからないだろうけれど。

次にうなったのは、本のほぼ真ん中の17章~19章。

17章ではこう設問が立てられる。
 「愛情のないSEXをしてはいけないのか?」…①
 「男と女のあいだに、友情は成り立つのか?」…②
 「恋愛と友情はどう違うのか?」…③
 「”純愛”というのは、どういうものなのか?」…④ (番号は便宜上私がつけたもの)

ああ…これはもう若者の、いや終生ひきずる文学の、テーマそのものだ。
中年以降にはこれに老いと死が加わるに過ぎない(その老いと死についても、彼はきっちりと最後に触れている)。

①で指摘されるのは、(現状は)SEX(の相手)を特別視しすぎている、ということ。
つまりSEXは愛情とはかならずしも関係なくしてしまう(出来てしまう)もので、
人間って(というかSEXって)それほど単純じゃないんだよ、ということ。

この指摘は恐ろしく深い。
これはレイプされた女たちの自己肯定へ至る扉でもあるし、
売買春の、特に買う側の心に分け入っていく扉でもある。
と同時にこれは、自らの中に沸き起こる、制御不能なエネルギーにとまどう若者たちを、
勇気付ける言葉でもある。

②と③もいいなぁ。結論はこうだ。

『「男と女だから」という理由だけで、そこに必ずSEXがなければいけない理由はない。その相手とSEXをしないからといって、それだけで、相手の魅力を否定したことにはならない。「男と女のあいだ」でも友情があって、友情は恋愛感情になることもあるし、恋愛相手がやがて深い友情を感じる相手に変ることだってある。友情と愛情の間に、一線は引けない—なぜかといえば、それは、友情も恋愛感情の一種だから。
・・・でも、友情と恋愛はどっかで違う。だから、こういうことにしちゃえばいい。「友情というのは、SEXぬきの恋愛である」とね』

このあとの18章の結びはこんなかんじ。

『男は、性器を自分の外に向けて誇示したいと思い、と同時に、その誇示したものを受け入れてもらいたいと思っている。受け入れる性器を持っている女は、「入ってきてもらいたい」と思うと同時に、「受け入れてあげたい」と思っている。男は、ペニスの先で、「人に包まれたい」と思って、女はヴァギナの内側で、「人を包んであげたい」と、・・・そういう性器をそれぞれに持っているんだから、いつか自分は人に愛されるんだし愛せるんだって思わなくちゃ、自分の肉体の意味というものはなくなっちゃうね。』

ここで出てくる例は古事記のイザナギとイザナミの一対の神。
(この名は「互いにいざない合う」という意味だと注がある。そう言われると素敵な名前に思えてくる)

『日本の神話における「世界の始まり」は、男女二柱の神様によるSEXなんだけれども、そのSEXを始めようとする時、男のイザナギの命は、こう言う。
「私の体は十分完成しているのですが、一ヶ所だけ、よぶんな部分がある」
それに答えて、女のイザナミの命は、こう言う。
「私の体も十分に完成しているのですが、一ヶ所だけ、足りない部分があります」
そこでイザナギの命はこう言うんだ。
「私のあまった部分で、あなたの足りなり部分をふさいで、そうしてこどもを作りましょう」と。』

橋本治は、『べつに、「あまっている」から優秀でもないし、「足りない」から劣っているわけでもない。』と付け加えつつ(未だこのような断り書きが必要だということよね)、

『・・・その「自然なこと」に身をまかせることができれば、人間というものはホッとできる。そのホッとできることが、「とってもいいことなんだよ」ということを教えるために、人間のSEXには快感というものがある。
だから、「自分」というやっかいでよくわからないものを抱えた人間は、自分のやすらぎを求めて、そして相手の幸福を願って、自分ひとりではない、「自分とおなじような他人とのSEX」というものをするんだ。
そして、この「全身でホッとしたい」という根源的な欲望を満足させようとする行為全体を、「恋」という言葉でも呼ぶんだね。』

この最後の二行で、私は読み終えていない本の感想を書き始めてしまった。

さて、設問④の”純愛”についてだが、
『「純愛」が特別視されるのは、SEXが特別視されていることの反動で、純愛とは友情のこと』
と指摘した橋本治は、恋という言葉を出したあとの19章では、このように論を展開する。

『・・・特別なのはSEXという”行為”じゃない。特別なのは、「人を求めることはこんなにも切実なのだ」ということを教える、その感情が特別—つまり、「恋」というものが、とっても特別なものなんだということだね。』

『SEXというのは、「肉体の交わり」だけれども、そうすることによって、お互いの感情というものが、相手の胸の中に入り込めなければ、「満足」というものは得られない。
「恋」というのは、感情の交流で、それと同時に肉体の交わりでもあるようなもの。「恋」というものの中では、感情と肉体と、どっちが重要であるかなんてことは、言えなくなってしまう。「恋」は、それ自体がほとんどSEXそのものであるような、濃厚な感情の交わりなんだからね。
「恋」というものには、豊かな感情が必要だ。それがなければ、「恋」というものはできない。感情の裏づけのない行為はウ

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