「ワイン一杯だけの真実」 村上龍 —グラスの中の凝縮された時間

posted in: 読書NOTE | 0 | 2008/9/13

8本のワインにちなんで繰り広げられる、グラスのなかにだけある"真実”の物語。

村上龍のこれらの短編は、どれも特別な一杯のワインなので、アクセルを踏み込んで読みぬけることなどできるはずもなく、ゆっくりと何度も飲む(読む)羽目になった…。

(この短編集に触発されて、私もワインにまつわる短い物語を書きました。)
>>> 『燃え尽きる夜のルーチェ』
 

ワインの味や匂いは複雑で、かつ繊細なものだ。ソムリエ言葉が記号のように羅列されるのには違和感を覚えるが、かと言って自分の言葉で表現することはとても難しい。言葉にされない以上、記憶にとどめることは更に困難だ。

けれどもまれに、それらがある場面と一緒に、記憶に刻み込まれることがある。その場合、同じような場面で味や匂いを思い出すだけでなく、その味や匂いに触れたとき(特に匂いに顕著だが)、それと結びついたあるシーンが鮮やかによみがえる。

そのシーンには、物語がある。そのシーンには、とても懐かしく、深く流れていた時間がある。おそらくワインとは、ただ日常の食事のよき友であるという役割を超えて、そのように物語を喚起する飲み物なのだろう。

もちろんワイン自体にも、自然の恵みに人の力がおしみなく注ぎ込まれ、時がゆっくりと育て上げた物語がある。おそらく人がワインに魅了されるのは、グラスに注がれた一杯の中に浮かび上がる、ワインが呼び覚ます物語ゆえなのだ。

特に村上龍によって選ばれたような特別なワインには、芳醇な物語りがひっそりと息づいていて、作家はその物語に、匂いや舌ざわりに加えて風景の色合いや風の湿度までをのせる。

これらの物語では、明確なストーリーは背景に遠ざかっている。鮮やかな描写とは裏腹に、語っている女の真実はまさにグラスの中にだけあるかのように、虚実すらあいまいだ。ロス・ヴァコスに至っては、複数の語り手の真偽どころか、それらの人物の境目さえ入り乱れ、まさに酩酊の度を深めている。

それらは男と女の物語(バローロは少し違うが)で、女たちは皆、どんな仕事をしていても、あるいは仕事などしていなくても、重層的で、かつ揺らめきを感じさせる時間の中にいる。男から遠く離れていても、男といっしょにいても同じように孤独で、つかの間の官能すら、夢のようにとらえどころがない。だが彼女たちは決して不幸ではない。なぜなら、とても特別な物語を秘めた一杯のワインと共に、生きているから。

村上龍によってグラスの中に閉じ込められた女たちは、ほんの一瞬だけ、そのワインを口に含んだときだけ、背後に広がる複雑で絵画的な物語を垣間見せてくれる。絵画と異なるのは、そのイメージが定まらないことだ。(ラ・ターシュの描写風に言うと)それは黄金色の、あるいは深紅の液体に、浮かんだかと思うと広がり、広がったかと思うと空中を漂い、拡散したかと思うとまたグラスの中に凝集する、といった具合に。

そうして一杯のワインを飲み干したあとには、物語はゆっくりと、豊かな香りと共に記憶の襞のなかにすべり落ちて行き、過ぎ去った時間のエキスとなり、やがて混濁する酔いの浮遊感にあいまいに溶けていく。最後にそれは、果てのない哀しみに似た余韻を残して消えてしまう。けれどもその余韻は、香りの記憶がふと甦ったようなときに、その香りを求めてグラスを重ねるごとに、さらに深くなるに違いない。

『凝縮された時間』と言う言葉が、最後の一本、トロッケンベーレンアウスレーゼを形容するために出てくる。この言葉ほど、長く時を経たワインを表すのに相応しい言葉はない。そのようなワインは、堆積して、でもまだ化石になる前の、まさに生きた時間を飲むものなのだろう。

このドイツの貴腐ワインを飲ませてくれた男が、女に言う。
『おれ達は死の世界を知らない。だから死に甘美なものを想像する。このワインはそういう味だ。死の世界の味がする』

グラス一杯の特別なワインは、男と女が一瞬だけ分かち持つことの出来る官能に、なんと似ていることだろう。

こうして生が甘美な死に反転する瞬間が、ワインと共に私たちの中に降り積もっていく。
それがたくさん積もっていくほど、グラスの中の一杯のワインも美味しくなる、
そんな気がする。

8本のワインは以下の通り。

オーパス・ワン、シャトー・マルゴー、ラ・ターシュ、ロス・ヴァスコス。チェレット・バローロ、シャトー・ディケム、モンラッシェ、トロッケンベーレン・アウスレーゼ。

◆『ワイン一杯だけの真実』 村上龍  幻冬社文庫 (単行本は1998年12月刊行)

 

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